【試し読み】『すべての石に宿る神』(カミーラ・シャムジー、河内恵子訳)女性小説賞受賞作家が繊細な筆致で描く歴史ロマンを5月1日の発売日に先がけて冒頭特別公開!

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書籍

「早くも古典の風格を備えている」と作家アリ・スミスに評される小説『すべての石に宿る神』(カミーラ・シャムジー、河内恵子訳)。第一次大戦後の激変に翻弄されるイギリスとインドの男女を描く歴史小説である本作は、イギリスでその年の優れた女性作家の小説に与えられる女性小説賞の候補となりました。
2026年5月1日の一般販売に先がけて、冒頭を特別公開します。

◆あらすじ
1914年、古代遺跡を発掘する英国人女性ヴィヴィアンと英領インド軍のパシュトゥーン人兵士カイユーム。やがてペシャワール行きの列車で出会った二人の運命は、15年後、反植民地抵抗運動と、古代の遺物を巡り交錯する。歴史に埋もれた声なき声を紡ぎだす、心震わす物語。

◆本書への賛辞
「見事な小説――美しく、苛烈で、真実。早くも古典の風格を備えている」アリ・スミス(作家)
「胸躍り、読み終えたとき深く心を揺さぶられる。どんなに気が滅入っているときでも、心を慰めてくれる」アントニア・フレイザー(作家)/ガーディアン紙
「ラストシーンの臨場感がすさまじく群集の真っ只中にいるような心地がしました」丸善丸の内本店 玉井佐和

すべての石に宿る神 』カミーラ・シャムジー、河内恵子訳
四六判並製、定価:3960円(10%税込) 978-4-15-210515-8
2026年5月1日一般発売(全国11店舗にて4月20日先行販売、詳細は こちら  )

すべての石に宿る神

姉妹たち──サマーン、マグー、マハーに

著者のノート

 ラブラウンダ遺跡を含む古代カリアは現在のトルコにある。紀元前五一五年、それはペルシャ帝国の西の国境に位置していた。帝国の反対側、すなわち、東の国境にはカスパテュロス居留地があった。カスパテュロスの正確な位置は確定されてはいないが、ペシャワールの中か近くにあったとする歴史家は複数存在する


第一部

アジアの大部分はダリウスによって発見された。彼は海がインダス川と繋がる場所を知りたいと思っていた(この川は、世界でたった二つしかないワニの生息地の一つであった)。そういうわけでダリウスは誠実に報告するであろう、信頼できる者たちを船で送り出した。そこにはカリアンダ出身のスキュラクスが含まれていた。彼らはパクティークの地、カスパテュロスの都市からしかるべく出航した。
──『歴史』ヘロドトス


王と国のために


紀元前五一五年

 イチジクの葉と果実がスキュラクスの両手の中でくるくる回る。彼は、彫刻模様に生命を吹き込みながら銀色の環を回す。そして、想像する。手首を曲げると、頭の飾り環が滑っていくのを自分は見つめていると、想像する。
 環は滑る。
 山の、傾斜する砂漠を。川と平原と果実の、宝石で飾られたような谷を横切り、
 ざぶん!
 と泥の支流の真ん中に着地する、その流れに沿ってワニで溢れたインダス川へと疾走する。

 遠く離れた河岸のそばでは、彼の船は茶色の汚れだ。一晩中山で過ごした彼を仲間の乗組員たちは狂っていると思っている。わからない彼らに説明する必要などない。太陽とともに目覚め、澄みきった大気のなか、まるで捧げもののように目前に広がるインダス川の速い流れを見つめることの素晴らしさを、わからない彼らには。彼は環を頭に載せ、そこに彫られた繊細なイチジクに、故郷に敬意を表して、船乗りの粗い手で触れる。カリアでは、果実は甘いが男たちは蛮族だ。ペルシャ人たちはそう言っている。しかし、ここにいる彼こそに、蛮族の男の一人である彼こそに、帝国のもっとも大胆不敵なミッションを先導する役割が任せられたのだ。今まで広大なインダス川を航行した者はいない。試みた者さえいない。オデュッセウスでさえも。
 一群の白い鳥が彼の船を囲む。いや、それは帆だ。乗組員たちがこの贈り物で彼を驚かそうと一晩中働いたのだ。船の準備は整った。帆が風をとらえ、彼に向かって大きく膨らむ。彼は鋭く口笛を吹く。すると、山の下の方につながれた彼の馬がいなないて応える。スキュラクスは音に向かって走る。彼と船の間の距離が突然大きくなる。今日、それが始まる。今日、彼らは出帆する。既知の世界の端、ダリウスの帝国の端、カスパテュロスの町から。カスパテュロス──栄光への扉。

一九一四年七月―八月


 ヴィヴィアン・ローズ・スペンサーは今、ほとんど駆け足になっていた。山の斜面を登り、「聖なる道」の古代の敷石の上を走った。鳥たちや湧き水や蝉たちが奏でるオーケストラが伴走し、そよ風がオリーブの木々をわたっていた。ガイドやロバたちははるか後方にいたので、彼女が、何世紀も前に山の途中まで転がり落ちた白い塊のそばで急に立ち止まり、両手をその表面に置いてから、口づけするために身をかがめたのを目にしたものはいなかった。大理石、あら砂の感触、そしてその味に衝撃を受けて彼女は身体を引いた。ゼウスの聖地の核は甘いイチジクの味がしたのだ。あるいは、頭上を飛ぶ鳥が果実をここに落とし、その汁が岩を汚したのかもしれない。足下を見ると裂けたイチジクがあった。
「ラブラウンダ!」叫ぶとその声が反響した。
「ラブラウンダ!」山から跳ね返ってきた声が聞こえた。しかし、それは彼女の声ではなかった。男の声だった。聞き慣れた、外国人のアクセント。いや、彼女こそがここでは外国人だった。彼女はイチジクを拾い、鼻に近づけ、目を閉じた。二度と再びロンドンには戻りたくなかった。

 十九世紀の旅人たちの報告にはこのことは書かれていなかった。山のひな段状の登り坂に、巨大な神殿の大きさに匹敵する複合建築が手つかずの状態で残されていた。壊れてしまった列柱を拾い上げ、散らばった大理石や塊をつなぎ合わせ、かつて存在した壮麗さを想像することが可能だった。ここで、ダリウス率いるペルシャ軍の勢力に敗れたカリア人軍隊が敗走したのだ。ここで、世界の七不思議の一つ、マウソロスの霊廟の建築家たちがその技術を磨き上げたのだ。ここに、アレクサンドロスは、ゼウス像によって高く掲げられたアマゾーンの女王の両刃斧を見にやって来たのだ。
 ヴィヴは、すべてを吸収しようとするかのようにゆっくりと歩いた。葉叢に半ば隠れた廃墟、土が掘り返されたり、大枝がたたき切られる音、不明瞭な言葉を話す声。広い空と、その下に広がる平原と、遠くのエーゲ海をいっきに抱え込む風景。世界のこの地域の光に彼女はまだ慣れていなかった。この光は明るく輝いているが、決して過酷ではなかった。そして今までのすべての人生を、両目をガーゼで覆った状態で過ごしてきたのだと、この光は彼女に伝えていた。小さいが筋肉質の何ものかが突進してきて、危うく彼女を倒しそうになった。
「アリス!」大きな声を出し、パグ犬を抱き上げようとしたが、犬は前方へと飛ぶように走っていった。ヴィヴは追いかけた。もっとも背の高い人間よりも高い、壊れた円柱の迷路を通っていくと、父の古い友人であるタシン・ベイの見慣れた、ほっそりとした姿が現れた。彼は、薄茶色の髪の男のそばの地面にしゃがみこんで、大きな石の塊に彫られた何かを指差していた。それはヘビの形をしており、開いた顎の後ろには環があった。
「ヘビだね」薄茶色の髪の男がドイツ語訛りで言った。
「ウナギということは?」タシン・ベイがほのめかした。自分はそう確信しているのに、まるで相手に一つの仮説を検討してほしいと頼むような彼独特の言い方で。
「ウナギ? どうしてウナギなんです?」
 この質問に答えたのはヴィヴだった。彼女の存在に気づいていない男たちの会話に加わるのは失礼だとわかってはいたが。
「ラブラウンダの泉には耳飾りをつけたウナギがいると、プリニウスが言っているからですわ」
 男たちが振り向いて彼女を見たが、彼女は言い足すのを控えることができなかった。
「それにアイリアノスは、金の首飾りをした魚がいて、人になついているので呼ぶと応えると言っています」
 タシン・ベイが手を差し伸べた。彼の微笑は握手という堅苦しさ以上に歓迎の気持ちを表していた。
「ラブラウンダへようこそ、ヴィヴィアン・ローズ」
 タシン・ベイの手のひらの皮は硬かった。少し後に、ヴィヴィアンが目に感じた刺激を払おうとすると、その手はタバコと土にまみれたイチジクの香りがした。手に残った豊かな香りを嗅いでいると、訳知り顔をしたドイツ人が彼女を見つめているのに気がついた。好きになれない表情だった。ヴィヴィアンは勢いよく手を下ろすと、スカートで拭いた。その間、ここには見るべきものが多いので目が休まる暇がないと、考えていた。

 翌朝ヴィヴィアンは早く目覚めた。前日の服装のままだった。昨日の午後は、建造物の一つの、それが神殿なのか、男子部屋なのか、それとも宝庫なのかわからなかったけれど、柱の大きさを測りスケッチしただけだった。山を登ったり、ひな段状の坂を、半ば無我夢中でよじ登ったり降りたりしていたので筋肉痛になっていた。タシン・ベイが、スケッチをすることで役にたてる仕事を彼女に与えてくれたのだ。夕食時には、彼女ができることといえば食物を口の中に入れ噛むことだけだった。周りは人びとの会話でざわついていたが、彼女は会話に参加できなかった。しかし、それを許す温厚な雰囲気がそこにはあった。
 彼女はキャンプベッドから起き上がると、同じテント内にいる二人のドイツ人女性を起こさないように静かに着替え、暗闇と明るさの間はざまの時へと踏み出した。大気には冷たさがあったが、それほど強い冷気ではなかった。廃墟を歩きながら、両手ですべての塊、すべての柱に触れた。キャンキャン吠える声が静寂を鋭く切り裂いた。アリスを探して見回すと、かわりにタシン・ベイの姿があった。亀裂が入った大きな岩──ゼウスの裂けた岩──に座り、手にしていたマグカップをかかげて彼女に挨拶した。アリスは木立やひび割れた階段を通って彼女を案内するために遣わされたのだ。数分後、ヴィヴィアンは魔法瓶の蓋から熱い紅茶を飲みながら、カリアのいにしえの大地に太陽が昇るのを見ていた。
「あれが薔薇色の指をした暁なんですね」
「父上に手紙で知らせるべきだ。喜ばれるよ」
「ええ、すべてのことを手紙で伝えるつもりです」
 息子に恵まれなかった父親は、その欠落感を、娘を他の女性たちよりも秀でた存在にするという決意に変えた。父と娘は早い時点で、彼女が息子と娘の両方になるという、すなわち立ち居振る舞いにおいては女性に、知性においては男性になるという盟約を結んでいた。娘の精神を鍛える役割を自らに課した父は、彼女の子供時代にホメーロスをともに読んだ。そしてタシン・ベイが自宅を来訪する度に、このトルコ人に考古学者の生活について果てることなく質問し続ける娘に大きな喜びを感じていた。また、妻が反対するにもかかわらず、ユニヴァーシティ・コレッジ・ロンドンで歴史とエジプト学を研究するという娘の権利を擁護した。それでも、父がある朝、公園をドライブするのはどうかな、と誘うかのような調子で、ラブラウンダでのタシン・ベイの発掘作業に加わることに関心があるかと訊いた時には、ヴィヴは父が真剣だとは到底信じられなかった。とんでもないわ! とミセス・スペンサーは磨き上げられた木製のブレックファストテーブルにナプキンを叩きつけた。あなたは娘をミセス・フリンダーズ・ピートリー(イギリスのエジプト学者フリンダーズ・ピートリー〔一八五三―一九四二〕の妻)のようにブルマー姿でピラミッドを駆け登らせたいの? 娘の結婚の目処については考えていないの?
 父と娘はブレックファストテーブル越しに共謀者のように微笑みをかわした。それからヴィヴィアンは立ち上がってドクター・スペンサーの首に両腕を回した。大学を修了した折、夏の間、フリンダーズ・ピートリーが学生たちをエジプトに同行させる機会があったが、父はこれに参加することに反対した。この時ヴィヴィアンは表情にはそれほどあらわさなかったが深く失望した。つまり、未婚で父の庇護のもとにあるかぎり、これからも発掘調査に参加することは不可能だと思ったのだ。ところが、今、父は皿をどけてタシン・ベイからの手紙を見せ、このような機会をもちろん逃すべきではないと言っているのだ。そして、この昔からの友人はあらゆる礼儀作法が遵守されることを保証してくれる信頼できる人物で、向こうみずな妻を伴っているフリンダーズ・ピートリーよりも信頼できると付け加えた。また、責任を伴う仕事をうち棄てて自分も一緒に行ければとも言ったのだった。
「父上は君をとても誇りに思っている」岩の上で彼女の方に体を少し向けながら、そのトルコ人は言った。
「わかっています。でも、父が誇れるようなことを何もしていません。まだ、何も」
「何も? 父上は君の勇気を誇りに思っているはずでは?」
「勇気? それこそ私が持っていないものです。友人のメアリーを覚えていらして? 彼女は戦闘的な婦人参政権活動家になったんです、残念なことに。彼女は完璧に間違っていますけど、投獄されることや強制摂食に向き合っています。鏡を見ても私の中にはそのような勇気はありません」
「自分の知っているすべてのことから離れて世界の未知の地域にやって来るには、かなりの
勇気が必要だ」
「勇気ではありません。あなたがここにいらっしゃるから」
 この言葉を口にして自分が赤面しているのがわかった。実際に口に出してみると、思っていた以上に言葉には熱があった。彼女が伝えたかったのは、親しい彼がそばにいれば、知っているすべてから離れていることにはならないということだった。彼と彼女の父は若い頃、フランスの汽車の中で偶然知り合い、予想だにしていなかったことだが、それ以来友情を育んできた。彼女の記憶ではタシン・ベイがロンドンにやって来ない年はなく、やって来るといつも大英博物館を二人で歩き、いつの日かトルコ当局がラブラウンダを発掘する許可を出してくれることを願っていると、彼は話した。私も行くわ! と彼女はいつも言った。もちろん、と彼は子供の彼女に答えたが、彼女が大人へと成長していくと、父上の許可があれば、と答えるようになった。
 だが、昔と同じように慣れ親しんだ彼がそばにいるわけではなかった。彼も顔を赤くしていたのだ。彼女は今二十二歳で、彼のことをいつも歳をとっていると思っていた。しかし、ロンドンの鈍い光の中では気づかなかったのだが、彼のむき出しの前腕の筋肉や豊かな黒い髪が、二十五年の年齢差は時間とともに狭まっているのだと彼女に鋭く意識させた。
 彼女はタシン・ベイからくるりと体の向きを変え、スケッチブックを開いた。こうすれば、前日スケッチしていた建造物の廃墟を描くためにアングルを変える必要があるふりができた。もちろん、考古学者と結婚することが、この時代のスリルに満ちた発掘作業で自らの居場所を確保する唯一の方法だとたびたび考えてはいた。今回のこの発掘作業は、知識から外れた見当違いの発掘作業と位置付けられている、最近流行している女性たち主導の発掘とは正反対のものだった。だが、そのような方向性でタシン・ベイについて考えるのは馬鹿げていた。彼は父の友人なのだ。想像すらできなかった──そういう方向性で男性についてどう考えるべきかを実際に彼女が知っていたというのが問題なのではない。彼女は豊穣をあらわすトーテムを多く見てきたので生殖能力の仕組みも理解していた。重要なのはこの点ではない。重要なのは、もし彼が彼女の考えていることを知ったら、恥ずかしさで死んでしまうということなのだ。
「上手いね」
 見上げて驚いた。彼の注意は、建造物の長方形の輪郭(アウトライン)を形成する切り株状の柱──二つの側面においてはイオニア式──を素早く、しかし正確に描いたスケッチにそそがれていた。彼が手を出したので、彼女はスケッチブックを渡し、彼がページをめくるのを見つめていた。
「上手いどころか、別格にすぐれている。父上に見せれば誇りに思われるよ」
 彼の微笑みに微笑みで応えた。その人に認めてもらえれば世界がよりよくなると思われるような、そのような大人のそばにいる子供に戻ったかのようだった。

 その晩、夜空の下、長い木のテーブルには十人が夕食についていた。三人のドイツ人、六人のトルコ人、そしてヴィヴ。食事はほとんど沈黙状態で始まった。皆、料理人ナージズが作ったシチューに全注意力を傾けていた。食事が終わると皿を押しやり、ヴィヴ以外の全員が、二人のドイツ人女性でさえ、タバコに火をつけ、その日の活動について早口でしゃべり始めた。さまざまな言語が混じっていたが、中心となっていたのはフランス語だった。ヴィヴはブロンドのドイツ人男性、ウィルヘルムの隣に座っていた。彼は神殿の複合建築の中でとりわけ共同墓地に関心を抱いており、岩の墓の中ですでに発見した硬貨や碑文について綿密に説明した。彼女は頷きながら聞いていた。明らかに彼が望んでいるのはそれだけだった。しかしその間、彼女の耳は、できれば参加したいと思っている会話の端々をとらえていた。複合建築の中で最大の建造物はゼウスの神殿なのかどうかという、だんだんと熱を帯びてくるディスカッションにとりわけ興味をひかれた。ある時点でタシン・ベイの視線をとらえると、彼はウィンクした。彼女の両親の家で彼がそのようなことをするのは全く想像できなかったが、彼が無礼な振る舞いをしているとは感じられなかった。
「退屈?」彼が口の動きで訊くと彼女は頷いた。
 気づくと、彼は片腕にアリスを抱えて、木製の椅子の上に立っていた。星々が銀色の帯のように彼の頭の周りに集まっていた。
「皆さん、声を小さくすれば彼らの音が聞こえるかもしれません」
 彼は一本の指を唇に当て、山腹を指した。皆そちらの方向に目を向けたが、暗闇を遮る白い柱以外何も見えなかった。
「カリア軍の残兵たち。聞いて──『ラブラウンダ神殿』への『聖なる道』を傷ついた仲間を引きずりながら、重い足どりで歩く彼らの疲れ果てた足音が聴こえる。彼らの歩みを怯ませているのは身体の傷ではない。それは失敗だ。今朝、彼らは希望と勇気を持った男たちだった。巨大な帝国の端に位置する勇敢な人びとは、ペルシャの大君主と彼らとを繋ぐ鎖を断ち切る覚悟をしていた。ところが今や彼らはずたずたに引き裂かれ、疲れきっている。ペルシャ人の剣に愛する誰かを奪われなかった者など一人としていない。あそこを、今、彼らが行く。我々のそばをのろのろとした歩みで通りすぎていく。『ゼウスの神殿』へと向かって──違う、メフメット、それではない──彼らの心は彼らを見捨てた神への悲しみか怒りで満ちている」
 彼女の子供時代から、これが彼の役割だった。「古代の人びとの語り部」。彼と話した経験のなかで最初に明確に記憶に残っているのは、彼が自分は歴史の父であるヘロドトスや偉大な探検家であるスキュラクスと同様に、アナトリア──古代のカリア──の出身だと語ったことだ。
「神殿の中で彼らは言い争う。ペルシャ人に降伏するかそれとも故郷へと逃げ帰るか? たった一人、何も言わない男がいる。スキュラクスだ。彼こそはペルシャ人を一番よく知っていた。彼らと共に旅をし、共に酒を酌み交わし、その額にダリウスの愛顧の印をつけていた」
「彼に話をやめさせて!」
 タシン・ベイの甥であるメフメットが彼女の耳に囁いた。メフメットは彼女にもっとも近い年齢の考古学者だったが、この時まではヴィヴから距離を置き、あまり信用していない様子だった。
「お願いだ。あなたの言うことなら聞くでしょうから。お願いです」
 彼の怯えたような声に彼女は考えることもなく反応した。一切れの梨を手にとると、パグ犬に向かって投げた。すると犬はタシン・ベイの腕から飛び出した。その小さな足は水中にいるかのように空をかいた。かのトルコ人は前方へと身を乗り出し、犬を捕まえ、なんとか椅子の上でバランスを保つと、周りから拍手が起こった。事はうまく運んだ。災難を防げたことでその場の雰囲気は歓喜へと変わり、メフメットは、歌だ! 歌だ! と叫んだ。するとテーブルの周りにいたドイツ人たちが『グリーンスリーヴス』を歌い出した。ウィルヘルムは歌いながらヴィヴの両手を取り、テーブルの周りで驚くほど軽快なダンスへと引き入れた。
 少し経ってから、彼女はタシン・ベイに謝った。なぜか、アリスの口めがけて真っ直ぐに梨を投げ入れることができると確信していたのだ、と彼女は言った。彼は説明など必要ないと手を振った。近くに座っていたメフメットは無表情で二人を見つめていた。
「本当に、どうしてあのようなことをしてしまったのかしら?」他の人には聞かれる心配がない時、彼女は青年に尋ねた。
「ああ、あの話は何度も聞いているのでうんざりだったんだ」彼が嘘を言っているのはわかっていたが、嘘をつく理由を推しはかることはできなかった。

 二週目、ヴィヴが発見した。かつて天井の一部であったが崩れ落ちてしまった石板が、イオニア式の柱がある長方形の建造物から取り除かれると、碑文が刻まれた石が姿を現した。
妨げになっている石板を退けるように作業者たちに指示してほしいと、現場監督に強く頼んでいたのはヴィヴだった。発掘すべき大きな建造物がほかにあったので、小さな建造物に深い関心を抱いていたのは彼女だけだった。それゆえに、その地にいた考古学者のなかでギリシャ語の文字を読んだのは彼女だけだった。一歩下がり、もう一度読んだ。そして彼女はタシン・ベイを探して傾斜地を走り下りた。
「見つけたわ! ゼウスの神殿を見つけたわ!」
 午後早い時間だったにもかかわらず、考古学者たちはそれぞれが取り組んでいた作業を離れて碑文が刻まれた石の周りに集まり、テント仲間であるグレーテルが「偉大な機会」のためにとっておいたワインでヴィヴを祝福して乾杯した。
「ヴィヴィアン・ローズ・スペンサー、考古学者に!」タシン・ベイの言葉にほかの人びともグラスを掲げ、さまざまな訛りで同じ言葉を唱和した。父がこの場にいてこの光景を見てくれたらと彼女は願った。

 毎晩彼女はキャンプベッドのそばにイチジクを入れた鉢を置き、片手をその丸く膨らんだ果実の間に入れて眠った。いつもは熟睡できないのだが、ラブラウンダでは日中の肉体労働とその後のワインのおかげでよく眠り、寝入った時と同じ体勢で目覚めた。彼女を夢から引っ張り出すのは鼻をクンクンと鳴らすパグ犬だった。犬は歯で蚊帳の端を持ち上げ、その体を押し込む術を心得ていた。片足を木製の鉢の縁に置き、鉢をひっくり返すことなくそれを揺らした。行儀がよすぎて混乱を起こさないのか、あるいは、横柄すぎて自分で食べないのか、ヴィヴにはわからなかった。
 どちらにしろ、他の女性たちがテントの中で眠り続けている間に、アリスはヴィヴを起こすと数分後には彼女の腕に抱かれて薄く削ったイチジクを口に運んでもらっていた。これがアリスの好む食べ方だった。タシン・ベイがゆっくりと坂を登っていると、彼女と犬は彼に追いつくのだが、毎朝、彼は驚くふりをした。
「アリスが起こしてしまったのかな? テントをあけるとすぐに駆け出していくんだ。申し訳ない。でも起きたのなら、もしよければ……?」
 夏が過ぎていくとともに、ヴィヴは彼のこのふりがますますありがたいものに思えてきた。彼の振る舞いのおかげで犬と一緒に何をしているのか、何を企んでいるのかという質問に直
面せずにいられたからだ。しかも一日の数分間をタシン・ベイと二人だけで過ごすことができた。昇る太陽がラブラウンダの聖地と森林に覆われた周辺の山々を影のなかから引き上げる時、ゼウスの稲妻のせいでできた裂け目が入った岩の上に座り、モーニングティーを楽しんだ。オスマン帝国のこの地は美しかった。それは彼女の心に深く落ちていった。このようなことはイギリスではなにものにも感じたことはなかった。段々状の坂、プラタナスの木々、雲一つない、輝く青い空、いつでも、そしてこの先永久に最初の発見者としての彼女が認識されることになる神殿の枠組み。彼女は両手を強く合わせた。硬くなった皮膚とたこが、自分の身体の他の部分の何にもまして大きな喜びを与えてくれた。
 発掘作業が終わりに近づいたある朝、二人はいつものように一緒に座っていた。岩の上にタシン・ベイは片足を身体の下に組み、そしてもう一方の足を岩の端からぶらぶらさせ、紅茶が入ったマグカップを顔に近づけて持つ時、両肘ひじを身体に付けるように縮めた。この姿を彼女は、記憶を辿りながら、月明かりの下で、カーフスキンのノートブックに描いた。これは他のすべてのスケッチブックよりも個人的で、貴重なものだった。
「あれを発見できなくて失望していらっしゃるの?」神殿を見下ろしている彼を見つめながら尋ねた。
「何を見つけられなくて?」
「ずっと以前からラブラウンダで見つけたいと思っていらっしゃったもの」
「どうして知っているんだい……?」
「話してくださったでしょう。はじめてきちんと話し合った時に」
「僕たちがはじめてきちんと話し合った時、君は五歳だった。人形たちの霊的な命について話し合ったね」
「まあ、いいわ。私たちがきちんと話し合った最初の時を覚えていますわ」
 二人は声を小さくした。からかい合いながら。二人の手はアリスの体毛の上で並んでいた。

 少女は光を辿っていた。音楽とさざめく話し声はドアから庭へと流れていた。家屋敷の端へと近づいていくにつれて、先立って彼女を導いてきたすべてのものが闇にのみ込まれていき、すぐに自分だけが取り残されるのだろうとわかった。もし、闇が彼女自身をものみ込まないとするならば。
「どこへ行くんだね?」
 闇の声は彼女が予期していたようなものではなかった。異国人の声だった。
「あそこから離れるの」
 彼女は、一九〇四年を迎えようと呑み騒いでいる人たちで溢れた家を、さっと手で示した。彼女が本当に言いたかったのは、まだ十一時だというのに、彼女をまだ子供扱いして寝かせようとする母親から逃げ出したいということだった。
 闇の中でタバコに火がつけられた。すると、燃える白いタバコの端に男の顔が現れた。少女は生まれた時からこの男を知っていたが、その存在を面白く思い始めたのは、その日の夕方、父が「彼はヘロドトスが育ったのと同じ場所で育ったんだ」と彼女の耳に囁いた時だった。彼女はそのことを彼に伝えた。すると彼はタバコを強く吸い込んだ。両頬が口の中で触れ合ったに違いないと彼女は思った。
「そうだ。カリアの古代の土地、ペルシャとギリシャの先端だ。歴史の父、ヘロドトスの故郷だというのは本当だ。しかし、ヘロドトスの前にスキュラクスがいた。古代の旅人のなかでもっとも偉大な旅人だ。今では、歴史の目の隅の小さな一点になってしまっているけれど」
「その人はインドに旅したのでしょう! ヘロドトスが彼のことを書いているわ」
 男は、今、少女が関心を抱く価値がある人物になったかのように、彼女を見た。
「そうだ。ヘロドトスにできることといえばそれが精一杯だった。自分の『歴史』のためにスキュラクスの話を全部盗んだ後ではね。彼について何を知っているのかな?」
「ヘロドトスが言っていることだけ。ペルシャの皇帝ダリウスは、スキュラクスも含めて信頼している男たちの一団をインドへ送って──」
「『特にスキュラクス!』だ。カイ・デ・カイ、これは彼が使っている強い言葉だ。特にスキュラクス。もっとも信頼する者。さあ、続けて」
「スキュラクスはインダス川に沿って旅をし、後に彼が持ち帰った情報を使ってダリウスは川を下り、インドを征服したの。イギリスがそうしたように」
「最後の部分はヘロドトスから学んだね?」
 彼は笑った。その優しいひやかしは、彼が彼女を気軽なからかいの対象としてふさわしい大人だと認めたサインだと、彼女にはわかった。そのようなからかいは、彼と彼女の父との間ではよく見られたが、母との間では決して見られなかった。
「ヴィヴィアン・ローズ、ヘロドトスが一度も述べていない部分を話してあげよう。ダリウスはスキュラクスをとても信頼していたので、イチジクの模様がついた飾り環を彼に与えたんだ──もっとも高い名誉の印だ。ところが、二十年後スキュラクスの民、カリア人がダリウスのペルシャ人に対して反乱を起こした時、スキュラクスは皇帝ではなく、故国の人たちの側についたのだ」
「でもダリウスは彼を信頼していたのでしょう!」
「ああ、イギリスのお嬢さん、ずいぶん素早く帝国の側につくんだね」
 批判されているのはわかったが、理由がわからなかった。そのトルコ人は、彼女が当惑の表情を浮かべていることに、ほとんど傷ついてさえいることに、気がついたに違いない。彼は立ち上がった。その声にはもはや鋭い響きはなかった。
「秘密を話してあげよう。誰にも言わないと約束してくれたらね。いつの日か、僕はそれを見つけるつもりだ。スキュラクスの飾り環を」
 彼は腕を左右に広げた。空気をタバコの火でさざめかせながら。
「どこかで、土の下で、それは地中から発見しようとする意思を持った男を待っている」
「どこで探すの?」
「ラブラウンダという場所でだ」

「君にそのようなことを話したのか? 誰にも話したことはないと思っていた」
 タシン・ベイは両肘に身体を預けるようにして彼女を見た。驚きの表情を浮かべて。
「ええ、話したわ。それで──失望なさっているの?」
「失望だって? イギリス人のせっかちさだね! いつか、飾り環をこの手にする。どうして今日でなければならないのだろう? とにかく、この地で失望する者などいるだろうか?」
 タシン・ベイは長い手足を伸ばして立ち上がり、神殿の複合建築と下方のミラーサの平原と周囲の山々と遠くのハリカルナッソス半島を包むかのように両腕を広げた。
「カリアだ! ヴィヴィアン・ローズ。これから毎年の夏、カリアのもっとも聖なる場所の一つを発掘し続けるのならば、その他の場所も知らなければならない」
 今後の発掘にヴィヴィアンが参加するかどうかについての話はこれまで出なかった。来月についても、ましてや来年についての話など出たことはなかった。だが、彼女は彼のそばに立った。自分自身の足の短さを意識することを嫌がったアリスの吠え声を無視して。
「出発する前にすべてを見たいわ。ミラーサ、ハリカルナッソス、アリンダ、カリアンダ……」
「またまたイギリス人のせっかちさだ。こういうアイディアがある──コンスタンティノープルでの滞在期間を減らす気持ちがあれば、僕たちと一緒に海岸に沿って旅してはどうだろう? カリアのいくつかの地域とその先の場所を訪れるんだ。エフェソス。トロイア!」
「僕たち? あなたとアリス?」
「違う、違う。ウィルヘルムとグレーテルと僕だ。僕たちがそれについて話しているのを聞いただろう」
「ええ、もちろん。ごめんなさい。もちろんおっしゃってはいませんよね……」
「もちろん、そんなことはしていない! 君の父上には──!」
「父は二度と私たちと口をきいてくれないでしょうね」
「あるいは、君の名誉を守るために、僕たちに結婚を強いるかもしれない」
 もし、彼が自らが発した言葉に驚いたりしなければ、彼女はこの言葉を冗談だと思っただろう。彼はアリスを抱き上げ、ヴィヴにはわからない何ごとかを呟くとスコップや鑿の音の方へと坂を降りていった。プラタナスの木立の静けさのなかに取り残されたヴィヴは、ラブラウンダの聖なる大気を吸いながら、心臓が不規則に速く動く理由を理解しようとしていた。

 発掘作業が終わった。考古学者たちは来年の夏の再会を約束して解散した。現場監督と彼のチームはスコップを持つと、彼らを待つ建設現場へと一列になって山を下っていった。アリスはボドルムにあるタシン・ベイの家へと先に送られた。料理人のナージズとその家族と今季の発掘品を運ぶロバ隊とともに。アンナとメフメットを含む数人の考古学者たちはコンスタンティノープルに向けて出発した。ヴィヴ、タシン・ベイ、ウィルヘルム、そしてグレーテルはアナトリアに向かって馬で発った。
 彼らは一列か、あるいは、二列になって進んだ。列の配置は、最初のうちは決まっていなかったが、すぐにパターンが形成された。二人のドイツ人たちは少し前を行き、タシン・ベイとヴィヴが後ろに続いた。馬を降りて町や遺跡の周辺を歩く時も同じだった。ドイツ人たちは大股で歩き回り、あとの二人はゆっくりとした歩調で歩いた。はじめ、タシン・ベイとヴィヴの間の雰囲気は、パグ犬がいないせいかよそよそしいものだった。アリスはいつも、二人の間の沈黙が長くなったり、それが形を変えそうになる時、気持ちを晴れやかにする存在だった。しかし、二人はすぐに、言葉を交わしていない沈黙の時も心地よく過ごすようになった。そしてタシン・ベイほど面白い人は世界にいないのではないかというヴィヴの思いは確信へと変わった。ラブラウンダでは二人は主に遺跡や発掘物について話し合ったが、馬で共に旅をする間に、彼の脳裏にはあらゆる話題が存在していることを彼女は知るようになった。すべての古代の石の話、鳥たちの鳴き声、シェイクスピアのソネットや演劇、『聖
書』と『コーラン』の重なり合う部分と対照的な部分、タンゴの歴史といった具合に。
 ある日の午後、二人はエーゲ海を見下ろす低い崖の上に立ち、口と肌に海の塩を感じていた。ドイツ人たちは下の海辺を歩き回っていた。かつてカリアであった場所での最後の日だった。
 タシン・ベイが靴のつま先で──ほとんど優美に──崖の上の砂に一つ円を描いた。ヴィヴはそばにあったイチジクの木の葉と果実を取り、円のかたちに沿って交互に並べた。
「あぁ! できたね。僕のために見つけてくれたんだね、ヴィヴィアン・ローズ」
 稀なる光をいつもたたえている時の流れ、さまざまな失望が人生に貼りついてもますます明るく輝く一つの時の流れがある。この流れの存在を確固として知りながら、人はその時の流れに入っていく。それはかつての私だった、未来の自分自身の記憶を期待している私だったとヴィヴは思った。それはかつての私だった。枝からイチジクをもぎ取り、口一杯にそれを含んで、太陽がカリアの海岸から水平線へと輝くのを、インクのように青い海と崖のふもとにある岩までずっと見えるほど透明な海を横切って輝くのを見つめていた私。紫色になった舌と青い視界にほとんど狂わされたように、セイレーンたちは海の生きものではなく、海そのものなのだとわかった一瞬。タシン・ベイは彼女の考えが聞こえたかのように笑った。ほら、君の目の色が変わった。今、エーゲ海が君の目だ。軽く彼女の手首に、骨ばった部分に触れながら、付け加えた。そして、太陽が君の肌のなかにある。ヴィヴィアン・ローズ・スペンサーの変身だね。
「私は今の方が好きですわ」
「考えていたんだが。最後にロンドンでクリスマスを過ごしてからずいぶんと時間が経った。今年の終わりにロンドンを訪れようかと考えていたんだ」
「そうしてくださるととても嬉しいですわ」
 二人にはこれ以上言うべきことはなかった。今は、仕事仲間としての関係を続ける。二人の間で理解し合ったことを言葉や仕草で示さずに。そうすれば名誉ある立場で彼は父に会うことができる。パパは最初驚くだろう。しかし、父がこの寛大で知識のある人物と同じくらい賞賛する人物は他にはほとんどいないのだ。「ほとんどのイギリス人よりもイギリス人らしい」と言っていた。驚きはすぐに喜びに取って代わられるだろう。来年の夏、ヴィヴとタシン・ベイは夫婦としてラブラウンダに戻る。来年以降の夏も、ずっと。彼女は人生ではじめて穏やかな気持ちになった。

 彼らはマルマラ海峡の南方の海岸に到着した。そこからフェリーでコンスタンティノープルに向かうはずだった。ところが、ヨーロッパで戦争が勃発したという知らせがようやく彼らに届いたのはこの地においてだった。戦争は彼らがラブラウンダを出発した直後に始まった。オスマン帝国は依然として中立の立場だったが、この状況が長く続くとは思われなかった。フェリーのターミナルで一人の男が、オリエント急行は? と言った。ああ、駄目だ。一時見合わせになっている。ドイツ人たちとイギリス人女性は帰国する別の方法を見つけなければならない。もちろん、一緒にではなく。今や両国は戦争しているのだ。ところで──イギリス人女性の名前はミス・スペンサーですか? 彼女の同国人たちが海岸線に沿ってメッセージを残していますよ。ここに──彼は一通の手紙を差し出した。
 彼が「ヨーロッパの戦争」と言った途端──そこにいたすべての人はその言葉を理解できるだけのトルコ語を知っていたので──グレーテルとヴィヴはお互いの手を握り、ウィルヘルムはトルコ人から手紙を受け取るとヴィヴに渡した。彼の指が彼女の指に少し触れた。
 コンスタンティノープルの大使館からのメッセージは簡潔だった。父上が心配されている。大使館に至急連絡されたし。安全な帰国を手配する。
 その後、すべてのことが急速に進んだ。電話では大使自らが彼女に話した。きわめて幸運なことに、彼女がいる現在地までフェリーが向かっており、それには海路で帰国するイギリス人夫婦が乗船しているという。夫婦は彼女のことを知っており──コンスタンティノープルにいるありとあらゆるイギリス人が彼女を心配していた──喜んで彼女と一緒に帰国するとのことだった。そういう事情なのでターミナルで夫妻を待ち、合流してほしいとのことだった。
「でも、そんなに急ぐ必要はないのではありませんか?」
「ミス・スペンサー、ずっと前に出発すべきだったのです。お父さまには早速電報を打ちます。とても心配されていましたよ、あなたが考えていらっしゃる以上に」
 きちんと別れの挨拶を交わす時間はなかった。起こっている事態を受け入れる時間はなかった。ドイツ人たちは、イギリス人夫婦が到着した時、自分たちは一緒にいない方がいいだろうと言った。不快感をつのらせるだけだから、と。グレーテルは彼女を抱きしめ、ウィルヘルムは彼女と力強く握手した。そして二人は行ってしまい、彼女はフェリーが近づいてくるのを、タシン・ベイとドックの上で、見つめていた。彼に一歩近づくと、彼は離れた。何であれ彼女が意図していることを拒むように手をあげながら。
「彼らにはすでに僕たちが見えているかもしれない」ドックに速すぎるスピードで近づいてくるフェリーを指しながら彼が言った。
「でも、クリスマスには来てくださるんでしょう?」
「もちろん。その頃までにはこの戦争も終わっているだろう」
「でも、もしトルコが参戦したら、どちらの側につくのでしょう?」
「あの狂ったエンヴェルはドイツの味方をしたいだろうが、他の連中についてはわからない」
「関係ありませんわ。つまり、私には関係ないということです。何も変わりませんわ」
「おそらく何も変わらないかもしれない、おそらくすべてが変わるかもしれない。ヨーロッパの病んだ男──戦争が最終的に彼を殺すものになるかもしれない」
「私にはわかりませんわ」
「あらゆる帝国が終わる。トルコ人はあまりにも長く死の床についている」
「ああ! 恐ろしい」
「恐ろしい? なぜ?」
「あなたにとってです。それを考えると」
 彼は重要なことを頭の中で考えている時そうするように、つま先立ちをし、両手を背中の後ろに組んだ。彼女に触れまいとしているとヴィヴは思った。彼の腕に手を置き、袖の下の筋肉質の前腕を掴み、自分がしっかりと安定していると感じたかった。
「ナージズと僕が親類であることを知っていたかね?」
「料理人のナージズ?」
「そう。遠い親戚なんだ。母方の。それがどういう意味かわかるかい?」
 彼は彼女に階級、あるいは社会的地位について何かを説明しようとしていた。彼女が気にするかもしれないと彼が思っているスキャンダル、家名を汚すものについて説明しようとし
ていた。自分が感動しているのか怒っているのか彼女にはわからなかった。
「そんなこと関係ありません」
「大いに関係がある。僕の祖母の家系の人たちはアルメニア人だ。僕の兄弟たちにとってこれはどうでもいいことだ。だが、僕は子供の時から、一族のこの人たちをもっとも愛してきた。ボドルムの親戚たち、カリアにある一族の故郷を。そしてフランスの大学で学んでいる時、オスマン帝国の最初の社会主義の政党が結成された。オスマントルコからの独立を最終目標とするアルメニア人の政党だ。はじめて僕はフランスの革命の伝統と我が国の独裁的帝国を比較する、周りのフランス人学生にたいして恥辱感を感じずにいられた。その時でさえ、忠誠心は言葉に出すのではなく心のなかにとどめておくべきだという程度には、世界のことを理解していたけれどね」
「だからメフメットは、あなたがスキュラクスについて語るのを私にやめさせたのですね」
「そうだ。事情はわかっていた。ペルシャ人によってもっとも大きな冒険へと派遣された海の旅人スキュラクス、ちょうどオスマン帝国当局によってもっとも驚くべき遺跡を発掘することを許可された僕のように。帝国が差し出すものを僕たちは帝国から受け取る。しかし、結局のところ、僕たちの忠誠心は最初に愛し、今ももっとも深く愛している人たちと共にある。スキュラクスがカリアの反乱軍の王子ヘラクライデスの英雄物語を書きながらその日々を終えたように、僕もいつの日にか、アルメニア人の従兄弟たち、犠牲を意に介さず反乱の生涯を生きた、僕よりも勇敢な彼らについて書きたい」
「そんなふうに話されてはいけません」
「今まで誰にも話したことはない。君だけにだ」
 彼は組んでいた両手をほどくと、彼女の手首の骨ばった部分に再び触れた。すると彼女の脈は、その感触が骨を廻り血液に入ったかのように、急に速くなった。それから彼は再び両手を組むと、彼女からさらに遠ざかり、もう何も言わなかった。
 フェリーが着岸した。年配のイギリス人夫婦は最初に下船してきた人たちのなかにいた。彼らはあたかも長い間行方不明になっていた娘ででもあるかのようにヴィヴに挨拶した。
 ヴィヴが紹介すると、ありがとうございます、ここからは私どもが彼女の面倒をみますからと、イギリス人男性はタシン・ベイに言った。彼の声に疑いの念があるのは明らかだった。それゆえにヴィヴはつま先立ちしてタシン・ベイの頬にキスした。彼が彼女を抱きしめ返すことはなかったけれど、代わりに彼は彼女の耳に囁いた──約束の言葉を、提案の言葉を、戒めの言葉を。
「戦争が終わったらね、ヴィヴィアン・ローズ」

(つづきは書籍でお読みください)

◆著者紹介
カミーラ・シャムジー Kamila Shamsie

1973年、パキスタンのカラチ生まれ。1998年にIn theCity by the Seaで作家デビュー。2009年刊の『焦げついた影』(早川書房刊)はイギリスでその年の優れた女性作家の小説に与えられるオレンジ賞(現・女性小説賞)の最終候補作となり、アメリカのアニスフィールド・ウルフ図書賞を受賞。2014年刊の本書『すべての石に宿る神』は、著者自ら一番気に入っていると語る作品で、女性小説賞の候補となった。2017年刊の『帰りたい』ではイギリス最高峰の文学賞であるブッカー賞の候補となり、女性小説賞を受賞した。2007年にイギリスに移住し、2013年には英国籍を取得。

すべての石に宿る神 』カミーラ・シャムジー、河内恵子訳
四六判並製、定価:3960円(10%税込) 978-4-15-210515-8
2026年5月1日一般発売(全国11店舗にて4月20日先行販売、詳細は こちら   )