【試し読み】『預言者の歌』(ポール・リンチ、栩木伸明訳) ディストピア小説の新たな傑作を5月1日の発売日に先がけて冒頭特別公開!
“もし、これが私に起きたら、と想像せずにはいられない”と評された小説『預言者の歌』(ポール・リンチ、栩木伸明訳)。超監視社会となった近未来アイルランドを舞台に、家族の危機をまえにした母親の葛藤と決断を描いた本作は、2023年に英語圏最高峰の文学賞ブッカー賞を受賞しました。
2026年5月1日の一般販売に先がけて、冒頭を特別公開します。
◆あらすじ
ある雨の晩、エイリッシュの自宅をふたりの警察官が訪ねてきた。教員組合の幹部である夫ラリーに話を聞きたいというのだ。そのときから、夫や子どもと平穏に暮らしていたエイリッシュの日常に、影が忍び寄ってくる。デモに出かけたラリーは行方不明となり、同僚は逮捕され、高校生の長男には召集令状が届く。夫の帰りを待つか、子どもたちを守るため国外脱出するか。エイリッシュは決断を迫られる――。極右政党が政権を握った近未来のアイルランドを描く衝撃作。
◆本書への賛辞
「リンチが成し遂げた言語の離れ業には、目を見張るほかない……これは鮮烈かつ勇敢な、感情を揺さぶるストーリーテリングの勝利である」エシ・エデュジヤン(ブッカー賞選考委員長)
「共感に満ち、疾走感があり、今こそ読まれるべき一冊。読者は想像せずにはいられない――もし、これが私に起きたら、と」フィナンシャル・タイムズ紙
「何度も心がちぎれそうでした。しかし、それでも読まずにはいられません」紀伊國屋書店福岡本店 宗岡敦子

『
預言者の歌
』ポール・リンチ/栩木伸明訳
四六判並製、定価:3410円(10%税込) 978-4-15-210514-1
2026年5月1日一般発売(全国11店舗にて4月20日先行販売、詳細は
こちら
)
預言者の歌
アンナとアメリとエリオットに
かつてあったことは、これからもある。
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下に新しいものは何ひとつない。
──「伝道の書」一章九節
暗い時代にも
歌は歌われるだろうか?
ああ、歌われるだろう。
暗い時代についての歌が。
──ベルトルト・ブレヒト
1
夜が来ている。窓辺にたたずんで裏庭を眺める彼女の耳にはノックの音が入らない。宵闇が音もなく桜の木立を包んでいる。木々の葉はさざめきながら、最後の一枚まで包み込む闇をあらがいもせず受け入れる。くたびれちゃったな。一日はほぼ終わったのに、寝る前にやるべきことはまだあって、子ども達は居間にいる。キッチンの窓辺でくつろぐひととき。暗さを増す裏庭を眺めていると、闇に溶けてしまいたくなる。外へ出て横になりたい。落ち葉に混じって夜をやり過ごし、夜明けとともに新しくなり、目を覚まして朝を迎えたい。だがノック。彼女の思いにノックの音が割り込んでくる。ドアノッカーを執拗に叩く音があまりにもうるさいので、しだいにしかめっ面になる。居間からキッチンに通じるガラスドアを叩きはじめたのはベイリーだ。ママ、と大声で呼びながら玄関の方を指差しているが、テレビ画面から目は離さない。エイリッシュは赤ん坊を抱いて玄関へ向かう。玄関ドアを開けると、ガラス張りのパティオの外に男が二人立っている。顔が闇に溶けている。玄関灯を点けた瞬間、男たちの立ち姿がはっきり見え、夜の冷気はためいきをつく。パティオの引き戸を開けると、静まりかえった郊外に雨がしとしと降っている。セント・ローレンス・ストリートの家の正面に停車した黒い車。この二人が夜を連れてきたのかしら。不審な気持ちの隙間から男達を見つめる。左側の若い男が、ご主人はご在宅ですかと尋ねる。冷淡で油断のない目をして、エイリッシュの内側の何かを摑もうとしている。彼女がすばやく通りを見渡す。傘を差して犬を散歩させている人、雨にうなずきかけている柳の木、向かいのザジャックさんの家の大きなテレビ画面の明滅が見える。警察官が訪ねてきただけでやましい気持ちになるなんてばかみたい。彼女は大笑いしそうになりながら心を立て直す。抱っこされたベンがもがきだす。右側に立っている年配の私服の男がベンを見ている。表情がふっと和らいだように思えたので、そっちに話すことにする。男にも子どもがいるに違いない。もうひとりの方は若すぎる。隙がなくて強こわ面もてだ。おびえた声になっているのを承知しながら話しはじめる。主人はじきに帰ります。一時間かそこらで。今、電話してみましょうか? いいえ、それには及びませんよ、ミセス・スタック、ご主人がお帰りになったら、この名刺の番号になるべく早く電話して下さるよう、お伝え願います。わたしのことはエイリッシュと呼んで下さい、何かお手伝いできる用件でしょうか? いえ、ミセス・スタック、本件はご主人に関わることですので。年配の私服の男はそう言って、満面の笑みをベンに投げかける。エイリッシュは相手の口元に一瞬浮かんだ皺を見逃さない。そして、真面目くさった顔の刑事にはふさわしくない表情だなと思う。心配はいりませんよ、ミセス・スタック。心配する必要があるんですか、刑事さん? もちろんありませんよ、ミセス・スタック、これ以上お時間は取らせません。雨の中こんな時間に来ましたんで、わたしらもびしょ濡れになりました。車のヒーターで体を乾かすのが一苦労ですわ。彼女は名刺を持ったまま、ガラス張りのパティオの引き戸を閉める。男たちが車へ戻っていき、車がするすると動き出し、交差点でブレーキを掛けるとテールランプが左右の目みたいにぎらっと光るのを見届けた後、あらためて道路に目をやる。周辺一帯は夜の静けさを取り戻している。玄関の内側へ戻り、ドアを閉める。家の中は暖かい。名刺の文字を読みながら、ひとしきり息を止めていたことに気づく。わが家に何かが割り込んできた。ベンを下ろして、ちょっと考えてみなくちゃいけない。二人の男達と一緒に立っていたそいつは、自分の意志で玄関からわが家へ入ってきた。形はないけど存在は感じられる何かが──。彼女は玄関から子ども達がいる居間へ歩きながら、そいつが自分の横にこっそり並んでいるのを感じる。モリーは弟の頭の上に手を伸ばして、テレビのリモコンを摑んでいる。ベイリーは両手を振り回しながら、懇願するような目を母親に向ける。ママ、ぼくが見てた番組に戻してってモリーに言って! エイリッシュはキッチンへ入ってドアを閉めて、ベンを揺りかごに戻す。テーブルの上にあったラップトップとダイアリーを片づけかけて手を止めて、目を閉じる。不審な何かはまだついてきている。彼女はスマホを手に取り、ためらいながらラリーにメッセージを送る。気がつくとまた窓辺にたたずんでいる。裏庭の宵闇はもう心を和ませてくれない。闇でできた何かがこの家に侵入してきたからだ。
ラリー・スタックが名刺を持って居間の中をうろうろ歩き回っている。しかめっ面で名刺を見つめてからコーヒーテーブルに置き、首を振り振りアームチェアに腰を下ろす。片手であごひげをしごいている夫をエイリッシュが黙って見つめている。審査するようないつものまなざしで。ある年齢を超えた男がひげを生やすのは男盛りになる印ではなくて、もはや若い頃には戻れないのを示すためである。妻は夫がひげを生やしていなかった頃のことをほとんど思い出せない。足でスリッパを探りながらアームチェアに身を預けた夫の表情は平穏だ。何か関係ないことを考えているのかなと思って見ているうちに、額に皺が寄って渋い顔になる。彼はふいに前屈みになって名刺を取り上げる。何でもないと思うんだ、と夫が言う。妻は赤ん坊を膝の上であやしながら、夫からも目を離さない。ねえ、ラリー、何でもないってどういうこと? 彼はためいきをつき、手の甲で口をぬぐって立ち上がり、テーブルの上を探しはじめる。どこへいったかな、新聞は? 彼は部屋の中を見回しているもののうわの空で、新聞のことはすでに忘れているかも知れない。物思いの隙間に入ってしまった何かを見つけ出そうとしているのだが、うまくいかないのだ。振り向いて、妻が赤ん坊に授乳しているのを見ると心が和む。悪意の対極にある生命の姿は精神を落ち着かせる。彼は妻に近づいて、手を伸ばそうとして引っ込める。妻の眼差しが尖るのに気づいたからだ。国家警察局(GNSB)、と妻が言う。普通の巡査じゃなくて警部が来たのよ、あなたをどうするつもりなのかしら? 夫は天井を指差して、声を張り上げないでくれよ、と返す。そうして、歯を食いしばりながらキッチンへ入っていく。水切り台からコップを取ってひっくり返し、蛇口をひねって水を汲む。暗いガラス窓に映る自分の姿のさらに向こうを見る。桜の老木はじきに腐るから、春には切り倒さなくちゃならないかも知れないな。彼はぐいぐい水を飲んでから居間へ戻る。おそらく、と声を潜めて話しはじめる。何でもないと思うんだ、確かだよ。そう口に出しながら確信が彼の中で、手の平に受けた水がこぼれるように消え去るのを実感する。アームチェアへ戻っていく夫を妻が見つめている。彼は体を椅子に委ねて、ほとんど無意識にテレビのチャンネルをザッピングするが、妻の視線にふと気がついて体を起こしてためいきをつき、抜かんばかりの勢いであごひげをしごきはじめる。エイリッシュ、知ってのとおり、警察ってのは情報を集めるのが仕事だからね、用心深くやってるわけだよ、こっちとしても情報を与えてやらんわけにもいかないと思う。あの連中はまず間違いなく、ある特定の教員を狙って事件を立件しようとしている。そう考えれば、連中が俺と話したがっているのも納得がいくんだ。教員を逮捕する前にこっち側に警告しておこうっていうわけだろう。明日か明後日連中に電話を掛けて、何を欲しがっているのか確かめるよ。彼女は彼を見つめながら、自分の中心に真空ができているのを自覚する。心も体も、喉から手が出るほど眠りを欲しがっている。彼女はほどなく二階へ上がって寝間着に着替えて、赤ん坊がお腹を空かして目を覚ますまでぐっすり眠るだろう。ラリー、と呼びかけた彼女は夫が感電したみたいにビクッとするのを見逃さない。なるべく早く電話して下さいって言われたんだから、今電話して。電話番号は名刺に書いてあるわ。隠すことなんか何もないってことを知らせてやりなさいよ。彼は顔をしかめ、目の前に見えてきた何物かの寸法を測ろうとでもするかのようにゆっくりと息を吸って、妻を真正面から見つめる。夫の目は怒りで細められている。隠すことなんか何もないっていうのは、何が言いたいんだ? わかってるくせに。わかんないよ、君が何を言いたいのか。何を怒ってるの、ラリー、今電話を掛けてみてって言ってるだけじゃない。なんで君はそうやって、いつも俺を手こずらせるんだ、こんな時間に電話を掛けろだなんて。ラリー、お願い、今電話して。国家警察局(GNSB)がまた来たら真っ暗な気持ちになるわ、あなただって噂を聞いてるでしょ、ここ数カ月、世の中でどんなことが起きているか? ラリーはアームチェアに預けた体を前屈みにした末にようやく立ち上がり、しかめっ面で妻に近づいてきて、赤ん坊を両手に抱きかかえる。エイリッシュよく聞いてくれ、敬意っていうのは一方通行じゃない、あの連中は俺が忙しい人間なのを承知している。アイルランド教員組合の副委員長ともなれば、警察の指図にいちいちヘイコラして、ただちに動くわけじゃないんだよ。それはわかってるわ、ラリー、でもそれならどうしてあの人たちは、あなたのオフィスじゃなくてこの家を、しかもこんなに遅い時間に訪ねてきたの? 明日か明後日電話するよ、とにかくここはひと晩様子を見ようじゃないか? 彼はあいかわらず突っ立ったままで、目だけはテレビの方へ向いている。九時だよ、ニュースを見なくちゃいけない。それはそうと、マークはなんでまだ帰ってこないんだ? ドアの方へ目をやった彼女の腰のあたりを眠気が摑んでいる。彼女はラリーに歩み寄って赤ん坊を受け取る。さあね、あの子の動きをいちいち追いかけるのはもう諦めたわ、今晩はサッカーの練習があるはずだから、夕飯はお友達の家ですませたんじゃないかしら。もしかするとサマンサの家へ行ったのかもね。近頃べったり一緒なのよ、彼女のどこがいいと思ってるのか、わたしにはわからないんだけど。
市内を車で走るうちに彼はいらだってくる。急かす自分と尻込みする自分の間で心がぐらぐらし続けているからだ。ミスター・スタック、こんな夜分にお時間をお取りいただくのは忍びないのですが、と話す電話の向こうの声はいたって事務的で、礼儀正しいと言ってもいいくらいだった。ケヴィン・ストリートの警察署の裏路地に車を停めて、以前はこの近所の大通りはもっと賑わっていた、もっとずっと人が多かったのに今じゃ静かすぎる、と内心考えている。無意識のうちに歯を食いしばっていたので、あごの力を抜いて微笑みをつくり、子ども達のことを考えながら受付へ近寄っていく。ベイリーはいつも聴き耳を立てているから、俺が出かけたのに気づいただろうな。彼は、生白くて、そばかすのある手の受付の巡査が聞こえないほど小さな声でインターホンに声を注ぎ込んでいるのを見つめる。迎えに出てきたのは、ネクタイを締めた骨張った体格の若い刑事である。顔色が青白く、身のこなしがきびきびしていて、電話でしゃべったのと同一人物だとわかる。ミスター・スタック、ご足労いただきありがとうございます。こちらへどうぞ、できる限りお時間を取らせないようにしますので。ラリーは刑事について鉄製の階段を上がり、閉じたドアが並ぶ廊下を進んで取調室に案内される。椅子も壁もグレーで、何もかもが真新しく見えるその部屋のドアが閉じられ、彼はひとり取り残される。椅子に腰掛けて自分の手を眺める。スマホのメールを確かめてから部屋の中を歩いてみる。敬意のかけらもないぞ。ずいぶんそっけない扱いだな。すでに午後十時を回っている。刑事たちが部屋へ入ってきたので、彼は腕組みを解き、静かに椅子を引いて腰を下ろす。骨張ったあの刑事と一緒に来たのはラリーと同い年くらいの中年太りで、手にしたマグカップにはコーヒーの輪がついている。その男が微笑みのカスが残ったまなざしでラリーを見る。もしかすると、残っていたのは口元の皺に居すわっていた愛想の良さだったかも知れない。こんばんはミスター・スタック、スタンプ警部と申します。こっちはバーク刑事です。ティーかコーヒーでもいかがですかな? ラリーは相手の汚いマグカップをちらりと見て、ノーのしぐさをする。彼は警部と名乗ったその男に見覚えがある気がして、しげしげと顔を見る。以前会ったことがありますよ、とラリーが言う。ダブリンでのサッカー試合でした。おたく、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン(UCD)のミッドフィールダーだったでしょう。おたくのチームがゲールズと対戦したとき、俺と出会ってたと思うんですよ。ゲールズはあの年最強で、おたくのチームに圧勝したんだから。ラリーの顔をしげしげと見つめる警部の口元から皺が消え失せ、まなざしがふいに曇って、不可解な静寂が取調室を支配する。警部が身じろぎもせずにことばを返す。おっしゃっていることの意味がわかりませんな。一方、ラリーは自分の話し声に敏感になり、取調室に同席した第三者の視点で、テーブルの向かい側から自分自身の姿を眺めているような気分になる。あるいはドアの覗き穴から覗いているみたいな気分。他に覗く方法はない、テレビで見るようなマジックミラーもないのだ。自分の声が不誠実に響くので、少々おしゃべりが過ぎるぞと言ってやりたくなる。間違いなくおたくでしたよ、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリン(UCD)のミッドフィールダーは。対戦相手のことは忘れないんだから。警部はマグカップのコーヒーを前歯のあたりに含み、ラリーを見つめる。視線に射すくめられた彼はついにうなだれて、テーブルの剥がれかけたニスを指先でなぞる。そして再び、警部に向かって顔を上げる。顔の骨格が太くなり、骨組みの頑丈さが増したように見えるのだが、警部の目が語っている中身は全然変わらない。悪いけどこれ以上長引かせたくない、とラリーが言う。家族がもう寝る時間なんでね、家へ帰らなくちゃならないんだ。あんた達は俺にどうして欲しいんですか? バーク刑事が片手を差し出して口を開く。ミスター・スタック、あなたが多忙な方なのは承知しているので、こうしてじかにお話しできるのはありがたいです。通報を一件受理したのですが、これがきわめて緊急度の高いもので、あなたに直接関係のある事案なんですよ。ラリーは警部と刑事の視線を見返しながら口の中が乾いている。部屋の中で何かが動いているのに気づく。彼はすくんだまま動けないのだが、目だけを上に向けると、ドーム型の天井灯の中に蛾が一匹入りこんで暴れ狂っている。琥珀色に変色したドームの内側に蛾の死体が詰まっている。バーク刑事が紙挟みを開いた。司祭の手のように血の気のない手が、何かを印刷した一枚の紙を二人の間のテーブルに置く。ラリーはその紙の文章を読みはじめ、ゆっくりまばたきして歯を食いしばる。長い廊下を歩く足音が聞こえていたが、ばたんとドアが閉じられるのと同時に消える。蛾がまだもがいている。かすかなその音を耳にしながら、内側で何かが萎えていくのを自覚する。目を上げるとバーク刑事がテーブル越しに見つめている。刑事の目には特別な力があって、実際には存在しない何物かを解放するために、ラリーの胸中を自由に歩き回っているかのようだ。スタンプ警部の目の色を窺うと、正直そうな顔でこちらの出方を待っている。ラリーは咳払いをして、警部と刑事に向かって微笑みをつくる。刑事さんたちは俺をからかってますよね? 彼はそう言いながら、口元から微笑が滑り落ちるのを感じる。ふと気がつくと、紙を振り回している自分がいる。あんたたちはとんでもないことをやってるんだぞ、これが組合の委員長の耳に入ったら大臣に即刻直訴するからそう思え。若い刑事が拳の中にコホンと咳をして警部の方を見る。警部がにこやかに口を開く。ミスター・スタック、ご承知のように昨今わが国は国家的危機を迎えている関係で、警察に届いたあらゆる通報をないがしろにせぬよう指示を受けておるわけです──。何を言ってるんだ、とラリーは返す。こんなのは通報じゃない、意味不明ですよ、おたくらは事実をねじ曲げてる。すり替えもしてるだろう。この紙の文章はおたくらが書いたんでしょう。ミスター・スタック、昨今の国難に対応するために、この九月に国家緊急権法が施行されたのはご存じですね。国家警察局(GNSB)に治安維持の権限を新たに付与する法律です。新法に照らして以下のことを理解していただかなくてはなりませんよ。すなわち、あなたのふるまいは、国家に対する憎しみを煽ろうとする者の行為と見なされるということ。不調和と不安をまき散らす者と見なされます。ある行為が国家の治安基準に悪影響を与える結果をもたらした場合、以下の二つの可能性が浮上します。すなわち、その行為者は国益に敵対する人物と見なされる。これがひとつです。もうひとつの可能性は、意図的でなく、本人が気づかぬままに行為を成してしまったと見なされる場合。いずれにしてもですね、ミスター・スタック、結果は同じで、その人物は国家の敵と見なされるわけですよ。よろしいですね、ミスター・スタック、あなた自身の道義心を今一度、検討なさることを強くお勧めいたします。今述べたような行為はおこなっていないことを確認して下さい。ラリー・スタックはじっと黙り込み、紙に書かれた文章に目をやってはいるものの心はどこか他所にある。彼はまた咳払いをして、両手を握りしめながら口を開く。念のために確認させてもらいますが、おたくは俺がやっていることを反政府感情の扇動行為だと見なしてるわけですか? そうです、そのとおりですよ、ミスター・スタック。でもねえ、俺は労働組合員として自分の仕事をしている人間で、憲法で保障されている権利を行使してるだけですよ。治安維持の妨害なんか意図していないってことをどうやって証明すればいいんですか? それはあなた次第ですよ、ミスター・スタック。ただし、われわれがこの件についてこれ以上捜査しないと決定しない場合には、あなた次第ではなくなって、事態の流れを決めるのはわれわれになりますがね。ラリーは椅子から立ち上がり、両手の拳をテーブルに押しつけている自分自身に気づく。相手の顔には意志が見えており、ここへ連れてこられたのは、その意志に敗北させられるためだということがわかってきた。イエスをノーに変え、ノーをイエスにすり替えてしまう絶対的な力が認めたものがあるこの意志に。次の点についてはっきりさせておきたいんですがね、とラリーが言う。この一件は大臣の耳に入るでしょうが、一波乱起きますよ。労働組合の幹部を脅して職を辞めさせることはできない。この国の教員にはよりよい労働条件を求めて交渉する権利と、合法的な争議行為をおこなう権利が与えられているんだ。それらの権利は、あんたが言う国難とかいうものとは何の関係もない。帰らせてもらいますよ。若い刑事がゆっくり口を開こうとしたとき、ラリーはそれを確かに見たように思う。ラリーは車の方へ歩いていく間も、車の中でもしばらく坐ってそのことを考える。膝に置いた両手がぶるぶる震えている。刑事が開けた口から一匹の蛾が逃げおおせたように見えたことを。
ベンを保育所に預けてから、子ども達を学校へ送り届ける。モリーがイヤホンをつけたまま、ゴルフトゥーランの助手席のドアから下りる。後部座席のドアをベイリーがバタンと閉める。ガラス越しに見る、パーカのフードをかぶった息子の姿は、点描画そっくりだ。エイリッシュがオフィスへ向かうために道路へ出ようとしたらドアをバンバン叩く音がする。モリーが停まれと叫んでいる。助手席のドアが開いて、モリーがジムバッグを床から引ったくっていく。冬の光。十一月の朝のドアガラスは結露している。くたびれた心を抱えて車を走らせ、赤信号が見えたら自動人形みたいに停まる。これからはじまる一日に期待はしない。心に残るものは何ひとつないまま一日がまた過ぎ去り、忘れられ、音もなくカレンダーがめくられていく。職場で彼女がやっているのはもはや専門職の仕事ではない。分子生物学者は本来、作業台に向かって長時間立って作業をする。事実に照らし、自分が信じたいと思う事柄に照らして仮説を検討し、証拠を求めるのが仕事である。仮説の妥当性は実験の結果が教えてくれる。ところが今の彼女は毎日メールや電話の応対に明け暮れている。専門家が白衣を脱ぎ捨てて、何でも屋になり果ててしまった。人材の管理をし、会議ではぼんやりしてついつい間違った質問をしてしまう。オフィスの机でメールをチェックし、ビデオ会議の予定を午後五時半に変更する。それからスマホでラリーに電話する。パスポートの申請書は書いてくれた? 電話の向こうでラリーがごめん、例のことがどうしても頭から抜けなくて、とっちらかったままなんだよと返す。その声はまるで、眠っている間に空気を抜かれたせいで、目覚めたときにはすっかりしぼんで、ベッドに腰掛けて床を見つめている人のようだ。職場の人達には話したの? と彼女が訊く。電話を手で押さえながら同僚に何か話してから、ラリーの声が戻ってくる。二階の机に置いてきてしまったんだよ。何を置いてきたっていうの? パスポートの申請用紙さ。ラリー、例のことならショーン・ウォレスに電話して、彼に話してみてよ、国家緊急権法が施行されようがされまいが、この国には憲法で保障された権利ってものがあるんだから。俺はあの件については、弁護士よりも組合の委員長に直接話すつもりなんだが、あいにく今日はウイルスに感染して、彼女は休んでいるんだ。ねえ、ショーンはあいかわらずあの若い人とつきあってるの? ショーン・ウォレスは今フィッツジェラルドの裁判で手一杯だから、これ以上あいつの手を煩わせたくないんだよ。ところで今晩の晩飯をつくるのはどっちの当番だったかな? ショーンに電話した方がいいと思うわよ、夕食はあなたの当番。そうかわかった。六時半に打ち合わせが入ってるんだがキャンセルするよ。どっちみちやる気が出ないんだ。ねえ、ラリー。なんだよ? なんでもないけど、昨日挽肉を買っておいたからバーガーをつくれるわよ。じゃあわたし、仕事に戻らなくちゃならないからこれで。エイリッシュはそこで電話を切ったが、なんとなくすっきりしなくて、スマホを手に持ったままじっとしている。そうしてふと思い立って、ラリーの電話にメッセージを吹き込むことにする。彼女の声がラリーのスマホにとどくためには、いったん信号化された声がネットワーク機器を通っていくことになるのだが、奇妙な現象が起きる。彼女のスマホから突然、隣りの部屋でしゃべっているみたいな自分の声が聞こえてくるのだ。彼に話してみてよ、国家緊急権法が施行されようがされまいが、この国には憲法で保障された権利ってものがあるんだから。彼女は背筋が冷たくなって椅子から立ち上がり、オフィスのキッチンへ向かう。他所の国ならいざ知らず、この国でこんなことが起きるなんて信じられない。警察だか国家だかが個人の電話を盗聴するなんて、許される行為じゃない。とんでもない法律違反だ。さらに彼女の頭の中を、ゆうべ家の前に停まった車や、国家警察局(GNSB)や、近頃囁かれている噂話のことなどがよぎる。キッチンへ入ろうとして、一瞬その部屋を知らないような錯覚にとらわれる。グローバルアカウント担当の新重役、ポール・フェルスナーがコーヒーマシンの前でシャツの袖をまくり上げているところ。ゴウゴウいう音が止まり、ふわっとした香りが立ち、重役が振り向いて笑ってみせる。だがその微笑みは彼の瞳まで届いていない。おお、エイリッシュだね、会いたいと思っていたんだ。君はわたしのボイスメッセージに返事をくれなかったけども、例のアサクキとのビデオ会議は六時に変更になったよ。そう言った彼の顔に不誠実な色が浮かんでいると彼女は思う。彼の瞳は黒だと思っていたが今見ると緑だ。そうして彼女の目は、上着の襟についたナショナルアライアンス党(NAP)──この国の新しいエンブレムだ──のバッジに引きつけられる。相手の手が目について、ずいぶん小さな手だなと思う。ごめんなさい、メッセージのチェックが行き届かなくて。残念ながらそのビデオ会議には出席できないのですが、教えて下さってありがとうございます。
波打ち際に青い馬がいて、彼女に近づいてくる。いつの間にかその馬に乗って波打ち際を進む彼女。年齢を超越した彼女が光の中を馬で行くと、階下の玄関で電話が鳴っている。夢から寝室に乗りつける。ラリーがベッドの端に腰掛けて目をこすっている。なんてこと、と彼女は囁く。午前一時十五分に電話してくるなんていったい誰? 君の妹でないといいけどなと彼が返し、立ち上がってドアへ向かい、シルエットになったガウンに手を伸ばす。そうしてスリッパをパタパタ鳴らして階下へ下りる。彼女の方は横になったまま、ベビーベッドで眠るベンの寝息を聞いている。男の子二人が眠る部屋からくぐもった咳が聞こえる。ラリーの声がかすかに聞こえてくるのだが、何を言っているのかはわからない。妹のアーニャがトロントから電話を掛けてきたのかな、と思う。何年か前にも一度あったからだ。あら、ごめんね、お姉ちゃん、時差を逆さまに覚えてたんだ、今、何杯か飲んだとこなのよ。エイリッシュは目を閉じて、波打ち際で青い馬を探す。わたしは馬に乗ったことがある。あのとき何歳だったのかな? 今は冬で、夢の中の空は低い。彼女は馬の脇腹にかかとで触れていて、馬の活力が皮膚の内側から伝わってくる。と思ったら、ラリーが階下から戻ってきて隣りに横たわっているのだ。眠ろうとしてたとこ、と彼女が言う。彼は黙りこくって壁を見つめている。不機嫌で息づかいが苦しそうだ。彼女は手を伸ばして彼の腕をぎゅっと摑む。どうしたの、ラリー? 彼女はランプを点けて起き上がる。明かりにくるまれた夫の姿は子どもそのもので、振り向いて咳払いをした顔に困ったような渋い表情が浮かんでいる。キャロル・セクストンだったよ。ジムの奥さん。電話の向こうで感情的になっていた。ジムが昨日、オフィスを出たまま家へ帰ってないって言うんだよ。それだけなのね、ラリー、もしかして誰かが死んだとでも言い出すんじゃないかって思ったわ。エイリッシュ、いいかい、キャロルによれば、ジムは連中に捕まったらしい。連中って誰よ? 誰って、国家警察局(GNSB)に決まってるだろ。国家警察局(GNSB)? そうだ、キャロルはそう言っていた。意味がわからないわ、ラリー、ジムがその連中に捕まったってどういうことなの? 逮捕されたっていうことだと思う。ジムが車の後部座席に押し込まれるところを目撃した人間がいたんだが、その男は誰にも言わないでおこうと考えたらしい。キャロルは方々へ電話を掛けまくった末に、ようやくその事実にたどり着いたんだな。ジム・セクストンって言えば、組合のスポークスマンみたいな人でしょう、彼が何をしたっていうの? そこだよ、エイリッシュ、ジムが捕まって以来、誰ひとり彼の声を聞いてない。組合の顧問弁護士のなんとかさんに連絡しなかったのかしら? いや、マイケル・ギヴンは連絡を受けていない。ジムはキャロルにさえ電話していないんだ。でも人権を守るための法的手段を与えずに、人ひとりをそんなふうに逮捕できないでしょう。逮捕に付随する規則があるんだから。キャロルが言うには、マイケル・ギヴンは今、ケヴィン・ストリートの警察署にいるんだが、警察の連中が対応を引き延ばし続けているせいで、これからひとまず帰宅することになったらしい。国家警察局(GNSB)には直通電話がないので、直接問い合わせすることはできないんだそうだよ。組合の事務所にいた俺宛には電話一本掛かってこなかったんだが、じつにまったく、ありえない事態だ。それは嘘ね。嘘ってなんでだ? だってこの前この家へやってきた警部の名刺には電話番号が書いてあったじゃない。携帯電話の番号よ。あなた掛けたじゃない。いったいどうなってるのか教えてよ、ラリー。さてなあ、あいつが怒ってるのは確かなんだがね。誰が怒ってるの? マイケル・ギヴンだよ。あの人に警部の名刺を渡して。なるほど、それは思いつかなかった。あの名刺、どこへしまったんだっけ? 居間のマントルピースの上の、置き時計の下にはさんであるわ。エイリッシュ、いいかい、連中が先週ジムを捕まえようとしたときのことをキャロルが話してくれたんだ。ジムを告発する通報が警察に届いているぞと言って連中は警告したんだが、ジムはその警告を笑い飛ばしたんだそうだ。ジムが連中に、自分は逮捕されるんですかと訊いたら、連中はノーと答えた。そこでジムは連中の目の前で、憲法第四十条六項一の三を全文暗唱してみせた。〈市民が結社や組合をつくる権利〉についての条項だよ。そうして、自分にはアレンスターイルランド東部地区の中学校教員の半数を動員してストライキを起こす権限があるんだぞ、と言って連中を脅したそうだよ。エイリッシュは夫に目を向けたままベッドサイドチェストの上を手探りして、コップに入った水を飲む。ラリー、今度の国家緊急権法で一時停止される憲法上の権利ってどんなものがあるの? さあね、これほどの権限はない、こんなやり方はできないと思う、市民を好き勝手に勾留できるはずはないと思うけど、こんなことがまかり通るようじゃ法律はもうあてにならんぞ。しばらくの間、静かに様子を見てみよう。子ども達には黙っていてくれ。ラリー、こんな時間にできることは何もないから。少し寝ましょう。
彼女は窓際にひとりたたずんで、父の家の庭を眺めている。昔の記憶が濡れた葉を踏み、ブランコを揺らし、灌木の茂みの中でうずくまる。過去からの呼び声が聞こえる。もういいかい、わたしはここだよ。彼女の十歳の誕生日に父が植えたトネリコの木が、細長い庭にそびえているのを見上げる。ベイリーは伸びた草をかきわけて、葉先を蹴飛ばしながらずんずん歩いていく。モリーは冬枯れした植物の写真を撮っている。父はエイリッシュが腰掛けたテーブルの向こう側で、鼻を突っ込むようにして新聞を読んでいる。ベンは彼女の足元に置いたベビーシートで眠りこけている。彼女はマグカップを二つ手に取って縁の内側を指でなぞる。父さんこれ見てよ。なんで食洗機を使わないの。手洗いするならメガネを掛けなくちゃ駄目。サイモンは新聞から目を上げない。今はメガネを掛けてるよ、と彼がうそぶく。そうね、でも、洗い物をするときにも掛けなくちゃ。このマグカップ、ティーの染みが輪になってるんだから。そういうことはここへときどきやってくる、あの役立たずの家政婦に言ってくれ。おまえの母さんが生きていた頃には、カップが汚いなんてことは決してなかったぞ。エイリッシュは父の方を見ながら、子ども時代へ戻っていく。子ども心に見た父の鼻は鷹のようで、目は動きが機敏で、大事なことは決して見逃さなかった。今ではちんまりと椅子におさまって、ウールのカーディガンの背中を丸めている。紙みたいに薄い肌を通して、手の指の繊細な骨の形がわかる。彼は新聞をたたんでティーを注ぎ、テーブルを指先でトントン叩きはじめる。こんなものをなんでまだ読み続けてるのか、われながら不思議だよ。大嘘しか書いてないんだから。彼女は新聞にクロスワードパズルが載っているのを見つけて、ペンを手に解きはじめる。父の指がトントン叩く音は止んでいる。彼女は目を上げなくても、父にじろじろ見られているのがわかる。ふいに目を上げると父が顔をしかめている。エイリッシュと一緒に裏庭にいるのは誰だい? 父にそう言われて一瞬、外を見た後、父の方へ向き直って手を握る。父さん、外にいるのはモリーで、一緒にいるのはベイリーよ。わたしはここにいるじゃないの。困ったような表情がよぎった後、まばたきし、手を振りほどいて、何ごともなかったかのように父は椅子に体を預ける。もちろんそうだよ、むすっとしたときのあの子はおまえそっくりだね。妹と違っておまえは根が暗いな。エイリッシュは苦笑いを浮かべながら父を見返す。娘もわたしも父さんに似て無愛想ってことね。エイリッシュはそう言って、外にいるモリーに目をやりながら自分自身の面影を見ている。玄関の時計がジリジリうなってから三回鐘を鳴らす。子ども時代と少しも変わらない。モリーはいい子に育ってるわよ、十四歳ってのは難しい年頃なの。あの年頃のことはよく覚えてる。そう言ってクロスワードに視線を戻す。役職を示す飾りっていう意味の八文字の単語で、五番目の文字はGって何かな。サイモンはあたかもその単語がずうっと口の中で待っていたかのように、「記章(insignia)」とつぶやく。彼女は大喜びして父の顔を覗き込む。首のあたりに肉垂れができて、たるんだ皮膚の間に両眼が引っ込んで愛想がない。彼女はティーを注ぎながら、今のところは何も言わずにおこう、と思う。ベイリーはすくすく育っているし、マークときたらラリーに迫るほど筋肉がついてきている。彼女は目を上げて、ねえ父さん、ラリーは組合の仕事でちょっとトラブってるのよ、と言う。アイルランド教員組合がストライキを打とうとしてるのを政府がよく思っていないらしくて、ラリーが脅されているみたいなの。信じられる、こんな話? ラリーは誰に取り調べを受けたと思う? 国家警察局(GNSB)よ。サイモンは彼女の方へ向き直って何も言わずに首を振り、うつむいて自分の手の指を見つめながら口を開く。ラリーは気をつけた方がいい。あの連中は──国家警察局(GNSB)のことだがね──ナショナルアライアンス党(NAP)が政権を取った直後に、それまであった特別情報部をつぶしてこしらえた組織なんだ。すぐに悪い噂が立ったが一週間ほどで消えたよ。噂は弾圧されたに違いない。この国には秘密警察なんて今までなかったのになあ。父さん、あの連中は労働組合のレンスター地区の執行委員を逮捕したのよ。その人は電話を掛けさせてもらえず、弁護士も呼べずに勾留されたんで、組合が派手に騒ぎ立てたんだけど、国家警察局(GNSB)は沈黙し続けたんだって。それはいつ起きた話だね? 火曜の夜よ──。モリーの金切り声が聞こえたので二人揃って外を見ると、古いロープにぶら下がったベイリーが両脚でモリーをはさみ、モリーは両手をばたばたさせている。父の顔に獲物を狙う鷹のような表情が浮かぶ。いいかね、答えてくれ、おまえは事実を信じるか? 父さん、それっていったいどういう意味? 単純な質問だよ、おまえは大学出なんだから、質問の意味はわかるだろう。父さんがそういうことを言い出すときに言いたいことならだいたいわかるけど、お説教はやめてね。サイモンはちょっとそっぽを向く。視線の先の食器棚には、黄ばんだ新聞やページの隅を折った社会情報誌が積み上がっている。にやりと笑った父の歯が見える。エイリッシュ、おまえもわしも科学者だ。世の中には伝統があるが、伝統なんてものはだね、みんなが──科学者や教員や社会的な機関が──合意している事柄に過ぎない。社会的な機関の所有者が変われば、事実の所有者も変えることができて、信じることの構造や合意内容を変えることだってできる。ナショナルアライアンス党(NAP)がやってるのはそういうことだよ、エイリッシュ、単純な話さ。NAPはおまえやわしが事実と呼んでいる事柄を変えようとしているわけさ。連中は事実を水みたいに濁らせようとしている。あることを別のことだと主張して、それを十分な回数繰り返せば、それはそうだということになる。で、そのことを繰り返し言い続ければだね、人々はそれを事実として受け入れるようになるんだ。こんなのはもちろん古い考えであって、新しい発想ではないんだけども、驚くのはそれが本の中ではなくて、わしらの目の前で今起きているというところだな。彼女は父の目が思索の奥を覗き込んでいるのを見守りながら、自分も父の心の奥を覗いてみたいと思う。父はまだらの染みが出た手をズボンのポケットに突っ込んで、くしゃくしゃなハンカチを取りだして、鼻をかんでからポケットに戻す。言うまでもなく、事実は遅かれ早かれ明るみに出るさ、と父は続ける。しばらくの間なら事実に借りをつくることができるがね、事実はいつだって待っているんだ。辛抱強く、ものも言わずにひたすら待って、代価を要求して、天秤の皿が水平になるようにするわけさ──。ベンが目覚めて、何かしゃべりながら周囲を見回していると思ったら、突然大声で泣きはじめる。エイリッシュは坐っていた椅子を引いて息子をあやし、抱き上げて、スカーフで胸を隠して授乳する。ありふれた慰めが欲しい、子ども達を呼び集めて近くで遊ばせたいと思うのだけれど、かわりに暗闇の感覚がやってくる。暗い影が湧き上がってきているのだ。彼女は大きく息を吸ってため息を吐き出し、微笑みをつくろうとする。イースター休暇の旅の予約をしたところなのよ。カナダへ行って、アーニャと彼女の家族に会って、その後一週間ほど旅行してくるわね。トロント周辺を見て、ナイアガラの滝まで足を伸ばせたらいいな。子ども達も楽しんでくれると思うのよ。サイモンの視線が泳いでいる。わたしの話をちゃんと聞いてるのかな、とエイリッシュは思う。彼はテーブルに置いた両手を上げてしげしげと眺め、またテーブルに下ろしてから目を上げる。カナダに移住するのもいいかも知れんぞ。彼女は授乳を終え、椅子から立ち上がって父を見おろす。父さん、いったい何が言いたいの? わしはもう年を取っているからどうにもならんが、子ども達はまだ若い。順応しやすいし、やり直す時間がたっぷりあるっていうことだよ。トロントの人達の話し方なんか、すぐに真似するようになるさ。まあ、父さんったら何を言い出すの、なにもそこまでしなくても大丈夫よ。わたしにもラリーにも仕事があるし、子ども達には学校があるし、モリーはホッケーをやってるのよ。レンスター地区の女子ジュニアリーグで、二位のチームをすでに九ポイントもリードしていて、今年は優勝しそうなんだから。マークは高校へ入ったばかりで、わたしは父さんの面倒だって見なくちゃならないの。だって父さんときたらマグカップさえちゃんと洗えないんだもの。家政婦のミセス・タフトが来てくれるのは週一回でしょ。父さんがもし転んで腰の骨でも折ったら、誰が面倒を見るっていうのよ?
冬の雨が冷たく降り続く。雨に降り込められた日々の感覚は麻痺しているので、過ぎ去りゆく時の流れを覆い隠す。毎日が顔のない翌日へバトンを渡していくうちに冬の底がやってくる。異様な、落ち着かない空気が家中を満たしている。その空気は二人の刑事とともにこの家にやって来た。あれ以来、家の隅々までその空気が染みこんでしまい、家族の調和がほどけかけている。ラリーは深夜まで仕事をする日が増え、朝起きると不機嫌に黙り込むことが多くなった。手先がこわばっているのは静かな憎しみでも抱えこんでいるのだろうか? 何か途方もない重圧に耐えているかのように体全体が張りつめている。夫の帰宅が遅い日があまりにも長く続くので、エイリッシュはこっそりブラインドを押し下げて外を窺う癖がついてしまった。カーテンの陰から外を見る年老いた孤独な女みたいだと思いながら、玄関で夫の帰りを待つようになった。お帰りなさい。今日、モリーをホッケーの練習に連れていくのはあなたの当番だったのよ、ラリー。育児休暇から現場へ戻ったばかりなのに、共同研究チームの会議をまたキャンセルしなくちゃならなかったんだから。ねえ、何とか言ってよ。夫は帰宅して玄関で雨靴を脱ぎかけたところである。いじめられた犬みたいにうなだれていると思ったら、突然首を横に振って真っ正面から彼女を見つめる。今までと違う、と彼女は思う。怒りの籠もった囁き声で彼が語り出す。エイリッシュ、あの連中は組合の内部に嘘をまき散らして俺たちを混乱に陥れようとしている。俺が今日耳にしたことを話しても君には信じてもらえないと思う──彼女の細めたまなざしに向きあおうとする夫の声は震え、顔は再びうつむいている。聞いてくれ、君が言ってることはよくわかる。申し訳ないと思っている。そう言いながら彼は、プリペイドの携帯電話を見せる。隠しケータイだよ。たとえあの連中が盗聴したくても、連中にはこいつの番号を知る方法がない。彼女は自分と夫が玄関でひそひそ話をしているのを子ども達が聞いているかも知れないと思いながら、夫を見つめる。あなたのしゃべり方はまるで犯罪者みたいよ、ラリー。今日ね、ベイリーがウイルスに感染したみたいなの。今、二階で寝てるわ──。ラリーは片手を上げて彼女のことばをさえぎる。俺は犯罪者じゃないが、あの連中が組合をつぶしにかかっているんだ。組合員を勝手に捕まえはじめていて、無法行為をやめる気配はない。彼は彼女を尻目に居間へ入り、キッチンへ抜けてドアを閉める。彼女がガラス越しに見ていると、夫はショルダーバッグを椅子に掛け、流し台で手を洗い、ガラス窓に目を近づけて裏庭の様子を窺う。彼女は夫に近寄って心の奥を覗いてみたい。善良で誇りある男の心の奥底を。彼の内側で緊迫した、道義的でひたむきな戦いがはじまっている。敵がどれほど大きいのかはまだわからない。そういえばラリーは最近ひとりでいるのを好むようになった。結局のところ、男ってものは誰でも同じ孤独を求めるものだ、とかいう落書きをどこかで見たのを思い出す。彼女はドアを開けてキッチンを覗き込む。夕飯、食べる? いや、いらない、今日は昼飯が遅かったから。後でちょっと何か食べるかも知れないけど。モリーがマスクを着けて部屋へ入ってくる。モリーはすでにドアノブ、水道の蛇口ハンドル、トイレのタンクレバーを消毒し終え、セロテープを男の子部屋の外に張り巡らして隔離線をつくり、テーブルで食事するのも拒んだ。ウイルスは細胞に入りこんで増殖して、体の中に音もなく温床をつくって、人間が吐く息に乗って移動する。よく聞いてね、ウイルスによる感染を防ぐのはとても難しいのよ、とエイリッシュがいくら説明しても、モリーは聞く耳を持たない。その翌日、モリーとマークが感染して寝込み、ラリーもついに感染する。エイリッシュは家族全員が家にいるのでなんだかうれしい。ラリーには以前の朗らかさが戻ってきた。エイリッシュと幼いベンが感染を免れたのをからかって大笑いしたり、長髪で目が隠れたマークがティッシュで鼻をかんでいるのを茶化したりしている。びっくりだな、とラリーが言う。これじゃあ通りですれ違っても、わが息子だと気づかないぞ。パパ以外にコーヒーが欲しい人はいない? とマークが言う。家族が揃って映画を見ようとしているところへ、マークがコーヒーを持って戻ってくる。エイリッシュはマークのがっしりした長身をほれぼれと見る。もうすぐ十七歳になる彼は父親と肩を並べるほどに成長している。マークがエイリッシュの隣りに坐りながら、ママちょっと詰めてと言い、エイリッシュの肩に腕を回す。こんなふうに全員が揃うのはいつ以来かしら、と彼女は思う。モリーは彼女の隣りで膝を引き寄せてくつろいでいる。ベイリーはバッグチェアに身を預けてアイスクリームを食べている。ラリーはテレビの正面に陣取り、ベンはエイリッシュの膝の上で熟睡している。なんだよ、これかよ、とマークが言う。センチメンタルなこの駄作、今までに何回見たと思ってんだよ? ぼくは好きだよ、とベイリーが言う。あたしも好きだな、とモリーも言う。素敵な映画だよ。ねえねえ、ママはパパとどんなふうに出会ったんだっけ? ラリーが声を上げて笑い、マークはうんざりした声で言う。その話、なんべん聞いたと思ってんだよ、パパはすごいロマンチストだから、捕虫網を持ってママを何カ月も追っかけ回したんだ。でもホントの話はそうじゃないの、とエイリッシュがラリーに微笑みかけながら口を挟む。でもな、ホントの部分もあるよ、とラリーが言う。俺が偉大なるロマンチストであることは否定しない。が、ママを捕まえるのに使ったのはジャガイモ袋だ。ベンがエイリッシュの膝の上で目を覚ますと、彼女は息子が将来なるだろう大人の男を見ようとして、ベンの顔を覗き込む。とはいえこの考えが間違っていることは、マークとベイリーがすでに証明している。リンゴの木からオレンジが採れることもあるので、ベンはベンなりの大人になるに違いない。それはもちろんわかっているのだが、エイリッシュはベンの顔にラリーに似たところを見つけたくてうずうずしている。男の子なら誰しも成長したら実家から離れていくもので、世界をこしらえるふりをして粉々に打ち壊すのが自然のさだめだとわかってはいても、母親は、息子が父親に勝まさるとも劣らない大人になるよう願わずにいられないのだ。
ベンが目を覚ましていきなり泣き出したのは、目覚めそのものに驚いたせいだろう。エイリッシュは夢の中で空高く舞い上がっていたが、目覚めると部屋は真っ暗である。片脚をラリーの方へ伸ばしてみるとベッドはひんやりしている。ベビーベッドからベンを持ち上げて胸元へ持っていく。小さな口があえぐように乳をぐんぐん飲む。小さな手が彼女の肌を引っ掻く。指を一本差し出すと小さな力で確かに摑むので、赤ん坊には生まれながらに恐怖の感覚が備わっているとわかる。かけがえのない命にすがろうとするかのように、母親以外に自分を生命へとつなぐ者がいないかのように、ベンがしがみついてくる。明け方の鳥たちが鳴いて静けさの深さを測っている。ベンにベビーローブを着せて階下へ下りていくと、真っ暗なキッチンでラリーがテーブルに向かって腰掛けている。ラップトップの画面の明かりが顔を照らしている。階段を下りていく音が聞こえなかったようなので、彼女は黙ったまま夫を観察する。悲しみと心労が浮き出した顔が食い入るように画面を見つめている。壁のスイッチに手を伸ばして電灯を点けると、夫が目を上げて、ため息をついてからにっこり微笑む。彼はベンに手招きをして、膝の上に立たせ、赤ん坊に自分自身の目方を感じさせる。ゆうべ、ベンはよく眠れたのかな、と夫が訊く。ベンが起きたのに気づかなかったよ、君もずいぶん早起きだね。あなたこそよく眠れたの、ラリー、ベッドに入りさえしなかったんじゃないの? ラリーは赤ん坊を鼻先に持ち上げる。やあおはよう、ちっこい坊や、ついこの前突然やってきたと思ったら、もうじき乳離れするんだね。彼女はコーヒーマシンの脇に腕組みしてたたずんでいる。ふりむいて夫をじっと見つめるうちに、その顔がなんだか遠いもののように思えてくる。寝不足で充血した目と乱れた髪、メリノ毛糸のセーターに重ね着したおんぼろのヘリンボーンジャケット。ひげが半分白髪になっていて、この人わたしよりも老けるのが早いみたい、と彼女は思う。その瞬間、エイリッシュは、夫がかつてどんな風貌だったか思い出せなくなっている自分に気づく。人体の細胞が入れ替わる速さはさまざまだけれど、体全体の細胞は遅かれ早かれ更新される。彼は同じだが違っていて、目だけが変わらない。彼女はベンを受け取って、ラリーをじっと見つめる。まだ間に合うわと彼女が言う。ラリーは彼女を見て顔をしかめる。間に合うって何が? あなたが政府を相手にやっているゲームのこと、まだ中断できるでしょ。彼はふと押し黙った後、ため息まじりにラップトップを閉じ、レザーケースに入れて立ち上がる。あいにくだけど、エイリッシュ、車輪はすでに回っていて、もう逃げ出せない。ここで引き下がったら組織に対して大きな妨害行為になってしまうからね。教員が大挙して組合を見限るのを防ぐためにも、デモ行進は決行しなくちゃならないんだ。わかるわよ、ラリー、でもね、アリソン・オライリーはまだ仕事を休んでるんでしょ、なぜだと思う? 彼女の旦那さんが彼女はインフルエンザだって言っているから。三週間も治らないインフルエンザよ。確かに少し変だけど、ちょっと今はタイミングが悪くてね、ごめん。今日は報道関係者への説明会があるから早く出勤しなくちゃならないんだ──。彼女は背中を向けて、夫の話を聞くのをやめる。雨降りの暗い裏庭に目をやると、何もかもが濡れそぼって宙ぶらりんで、木々が寒さにうなだれている。振り向かなくても、彼女の意志と対立する彼の意志にどれくらいの力があるのか測ることはできる。二つの意志は静かに敵対し、お互いを見据えながらじりじりと円を描くように動き、そして取っ組み合い、休戦を迎えるまでに手痛い打ち身をこしらえるだろう。ラリーは居間の方へ行こうとした足を止めて口を開く。メアリー・オコーナーのお母さんが昨晩亡くなったよ。午前零時ちょっと前にメールが届いたんだ。九十四歳だって。巨人族なんてものがいたとしたら、最後の生き残りだったんだろうね。エイリッシュは首を横に振りながらベンを揺りかごに入れる。あの人は元気だった頃、たいした人だったな、お葬式はいつなの? 土曜の朝だよ、三守護聖人教会で。彼女はラリーに歩み寄って、今朝が今朝でなければいいのにと思いながら、夫の手首をぎゅっと摑む。アリソン・オライリーはインフルエンザなんかじゃない、あなただってわかってるでしょ。エイリッシュ、そいつは証明できないよ。国家警察局(GNSB)と関わりあっては駄目よ、ラリー。ドアを開けたが最後、向こう側に何があるかわからないんだから。エイリッシュ、落ち着いて聞いてくれ、国家警察局(GNSB)は旧東ドイツの秘密警察(シュタージ)とは違う。ちょっとした圧力を掛けているだけだ。ウチの組織に混乱と内紛をしかけて撤退するよう仕向けてるんだが、こっちはなにしろ総勢一万五千人いるからね。いくら政府が神経を尖らせたって、民主主義的なデモ行進を止められはしない。しばらく様子を見るのがいいさ。充血した目を間近で見ると、白目に赤と黄褐色が混じっている。調和した目の色なんてありえない。ラリー、言ってよ。ジム・セクストンは今どこにいるの? 夫はまばたきして、顔をしかめて目をそらす。まったく、エイリッシュ──。首を横に振りながら書類カバンを手に取って、居間へ入ったものの、玄関ドアまでは行かない。立ちすくんだ後、長いため息をつきながら坐り込むラリーの気配が彼女にはわかる。彼女は少しの間圧倒されながら、窓越しに裏庭を眺めている。鉛色の光の中で木々が濡れて輝く。明け方がせっかちにやってきて、木の葉に鈍い光が当たり、カササギがやかましく鳴き騒ぐ木立の影の輪郭がくっきりしてくる。切迫した気持ちを握りしめて、彼女は居間へ入っていく。ラリーは物思いが目の前に見えてくるのを待つかのように、アームチェアに腰掛けてじっとしている。そして首を振りながら口を開く。君が正しいよ、エイリッシュ、今動くのは賢くない。組合に電話して体調が悪いと伝えるよ。彼女は勝利感を抱えて彼に近寄っていく。彼の脇に立った彼女が口を開こうとしたとき、彼女の中で何かが解き放たれる。いたずら好きなカササギが飛び立つ。彼女は首を横に振りながら、彼を見おろして話しはじめる。そうじゃないの、今日のデモ行進は決行すべきよ。だって問題はもう、あなたとわたしを越えてしまっているんだもの。ナショナルアライアンス党(NAP)の連中は自分達を法律以上の存在だと思っているでしょ。でもわたしたちは皆、国家緊急権法は権力を引ったくったに過ぎないとわかっている。教員組合が憲法で保障された権利を守るために立ち上がらなかったら、他の誰が立ち上がるっていうの? 彼女は、椅子にでんと腰掛けた夫の姿を見る。ラリーは大人の心を両手に摑んだ少年そのものだ。彼は瞬時に立ち上がり、揺るぎない表情を見せる。よし決まった、デモ行進をするには雲行きが怪しそうだけど、とにかく行ってくるよ。デモが終わったらちょっと飲みに行く。でも飲みすぎたりはしないから大丈夫。モリーの練習が終わる時間には迎えに行けるよ。彼女はドアにもたれて、夫が玄関で緑色の雨靴を履くのを見ている。彼はレインコートを取って、上着の上に羽織ろうとする。コートの袖が裏返しになっていたので、玄関ドアのところで少しだけもたもたする。彼女には夫がまだ迷っているのがわかる。彼が目を上げて彼女を見る。いってらっしゃい。彼女が微笑みながら言う。気をつけてね。
昼食後にオフィスの個室へ戻ってきた彼女は捉えどころのない気分を抱えている。表に見えてはいないものの対応すべきことがあるのだが、心はついつい他のことばかり思い出す。保育所に預けたバッグの中にベンの着替えを入れ忘れたこと。パスポートの更新書類を投函し忘れていること。あ、そうだ、デスクの上にスマホを置き忘れていたんだ、とようやく気づく。スマホを手に取り、出られなかった着信はないか確かめる。ない。だがデモ行進の最中に電話してこないのはラリーらしくない。彼女はオフィスのキッチンへ向かう。ロヒット・シンがパソコンの画面から顔を上げて彼女と目を合わせる。彼は電話の最中なのだが、目で何かを言おうとしている。表情の意味が読み取れないので彼女は肩をすくめ、下唇をちょっと歪めて、なんとなく悲しげな感じをつくって返しておく。次の瞬間、名前を呼ばれたので振り向くと、アリス・ディーリーが自分の個室からわざわざ出てきてためらいながら、エイリッシュ、あなた、ニュースを見てないの? と訊く。見てないわよ、昼食から帰ってきたところだもの。そう返すのと同時に、彼女はアリスの表情の意味を理解する。アリスの個室に向かおうとするエイリッシュの足はゆっくりになり、水に浸かって進むような速度になってしまう。ぐっと息を吸い込んでからアリスの個室に入ると、パソコンの大きな画面の前にみんなが集まっている。ニュース番組は、騎馬隊が突入してきた通りに陰鬱な血煙が上がった地獄絵図を映し出している。ひれ伏したデモの参加者を警官隊が警棒で打ち据え、他の参加者達を通りの隅へ追い込んでいる。催涙ガスを受けて動作が遅くなった人々が映し出され、ガスを免れたデモ隊は四方へ走って逃げていく。衣服の首元を鼻のあたりまで引っ張り上げて、民家の玄関先にうずくまる人達がいる。ひとりの教員が私服刑事達にひきずられながら、覆面パトカーへ連行されていく場面が繰り返し流される。エイリッシュは無力感に押しひしがれ、気づくと自分の机でスマホを耳に押し当てている。呼び出しているのだが相手は出ない。ポール・フェルスナーがエイリッシュの個室のブラインドの隙間から覗き込んでいる。パソコンの前に坐った彼女はラリーの顔を思い浮かべようとする。だがすぐそこに見えるのは、フェルスナーの探るような目つきだ。三十分前の自分の姿が脳裡をよぎる。サンドイッチを頬張っていたとき、デモはすでにはじまっていた。エイリッシュは時間に置き去りにされていたのだ。ラリーを助けに行かなくちゃならない。こんなことしてる場合じゃない。どんよりした罪悪感がのしかかってくる。IDカードと持ち物をバッグに放り込み、コートに片腕を突っ込んでオフィスを駆け抜け、ガタガタ音をたてて階段を下りて、外の道路に出る。彼女はもう一度ラリーに電話を掛けてみるが応答がない。さらにもう一度掛けると、こんどは電源が切られている。彼女は空を見る。ついにその日が来たと言わんばかりに、見慣れない色の空の下、崩れ落ちるような感覚があり、雨粒がゆっくりと顔に落ちてくる。
(つづきは書籍でお読みください)
◆著者紹介
ポール・リンチ Paul Lynch
1977年アイルランド生まれ。2013年にRed Sky in Morningで作家デビュー。本作『預言者の歌』は長篇第5作にあたり、2023年にイギリス最高峰の文学賞ブッカー賞を受賞し、2024年にアメリカのデイトン文学平和賞、2025年にフランス書店員賞(最優秀外国小説部門)を受賞した。また、イタリアのストレーガ・エウロペオ賞、アメリカのカーカス賞などにもノミネートされ、現在は37の言語に訳されている。